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下条正雄
明治・大正期の海軍軍人、政治家、日本画家 ウィキペディアから
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下条 正雄(下條、げじょう[注釈 1][1] / しもじょう[2] まさお、1842年8月29日(天保13年7月24日[3][4]) - 1920年(大正9年)12月1日[2])は、幕末の米沢藩士、明治・大正期の海軍軍人、政治家、日本画家。最終階級は海軍主計大佐。貴族院勅選議員。雅号・桂谷(けいこく)。

経歴
出羽国置賜郡米沢(現山形県米沢市)で、米沢藩士・下条半兵衛の長男として生まれ、慶応2年6月(1866年)下条武兵衛の養子となり家督を相続[5]。明治2年12月(1870年1月)権少属任官[6]。1873年以降、海軍少秘書、同大秘書、同少書記官、同主計少監、同督買部理事官、横須賀鎮守府会計監督部長、佐世保鎮守府主計部長、海軍主計学校長、海軍部内の諸課長、海軍主計大監等を歴任し、1893年5月予備役に編入[2][6]。1919年9月23日、海軍武官官階表の改正により予備役海軍主計大佐となる。
1897年12月23日、貴族院勅選議員に任じられ[7]、茶話会に属して活動し死去するまで在任した[2]。その他、臨時博覧会鑑査官、第5回内国勧業博覧会評議員、東京帝室博物館評議員、東京御所装飾品取調委員、日本大博覧会評議員、日英博覧会評議員、議院建築準備委員会臨時委員、臨時博覧会評議員などを務めた[2][6]。
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日本画家としての経歴
米沢藩絵師・目賀田雲川に学び[3][9]、上京して鍛冶橋狩野に入門し狩野派を学び、大和絵、南画なども描いた[1]。1875年、狩野探美らと古書画鑑賞会を興す[3]。1879年、龍池会の結成に参加[3][9]。1882年、第1回内国絵画共進会で審査員となり、1883年、パリ第1回日本美術縦覧会に「葡萄ニ栗鼠図」を出品[3][9]。1887年、龍池会が日本美術協会と改称し、1888年に開催した第1回新古美術展覧会の審査委員長となる[3]。1898年に結成された日本画会の名誉会員となる[3][9]。1904年、セントルイス万国博覧会で金牌を受賞[3][9]。1907年、文展開設に際して、それに対抗して正統同志会を結成し第1回展の審査長を務めるなど、伝統絵画の保存を重視する旧派の指導者であった[3][9]。
栄典
親族
門下
脚注
参考文献
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