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中畠晴辰
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将 ウィキペディアから
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中畠 晴辰(なかはた はるとき/はるたつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。白河結城氏一門でその家臣。中畑 晴辰とも呼ばれる。
出自
中畠氏(中畑氏)は大和源氏流陸奥石川氏の石川有光の子の九郎光幹[1]が前九年の役で戦功を挙げて、中畠(中畑)を称した事から始まる(『白河古事考』)。
略歴
中畠晴常の嫡男として誕生。
晴辰は当初国神城を居城としたが、後に山城の必要性から隈井城(観音山館)を築城しそこに移り住んだ。その後、天正11年(1583年)に三城目城(鷹巣城、タカナシ館ともいい、永禄年間に城主の伊藤祐勝を追って支配下に治めていた)に移住し、隈井城は弟・晴時に与えた。
天正16年(1588年)には、辺見主膳正の居館の泉崎館を、跡継ぎ問題の内紛が起きたのに乗じて攻略した。
天正18年(1590年)の小田原征伐において、一族の小峰義親に参陣するように進言したが、義親は財政難を理由にこれを拒否していた。義親の小田原不参陣により晴辰は追放となり、旧縁を頼って相馬氏の下へ落ち延びようとするが、その途上の三春の行合村で落武者狩りの浪人・農民らに討ち取られた。
脚注
出典
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