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井上政重

安土桃山時代から江戸時代前期の大名。下総高岡藩初代藩主。江戸幕府大目付。高岡藩井上家初代。井上清秀の四男。従五位下、筑後守 ウィキペディアから

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井上 政重(いのうえ まさしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名江戸幕府宗門改役下総国高岡藩初代藩主。高岡藩井上家初代。号は幽山

概要 凡例井上政重, 時代 ...

経歴

天正13年(1585年徳川家康の家臣、井上清秀の四男として遠江国で生まれる。

寛永4年(1627年)12月29日、従五位下筑後守に叙任。

寛永9年(1632年)12月17日、江戸幕府の大目付(当時は惣目付という名称)となる。宗門改役に任ぜられ、幕府のキリシタン禁令政策の中心人物となった。井上の下屋敷文京区小日向にあり、キリシタンを幽閉する施設(切支丹屋敷)として使用されていた。脇に切支丹坂という坂が残っている。

寛永15年(1638年)、島原の乱に上使として九州に赴いた。

寛永17年(1640年)6月12日、1万石を領し大名に列し下総国高岡藩の藩祖となる。

寛永20年(1643年)5月23日、3千石を加増される。

寛永20年(1643年)5月、筑前国で捕らえられたジュゼッペ・キアラ(岡本三右衛門)が同年7月に江戸へ移送され、政重の小日向の下屋敷に預けられて取り調べを受けた。

同年、ブレスケンス号事件が発生したことを受け、1650年に、バタヴィア側は信任状のない特使を送る事になる。この特使に対して惣目付の井上が対応した。紅毛流測量術はこの際に伝えられたとされている[1]

正保元年(1644年)12月16日、大目付として宮城和甫と共に、諸大名に正保国絵図正保郷帳の作成を命じた。

万治元年(1658年)閏12月8日、職を辞す。

万治3年(1660年)7月9日、嫡男政次は早世したため、政次の嫡男である政清に家督を譲って隠居し、幽山と号した。

万治4年(1661年)2月27日、文京区小日向の下屋敷にて死去。享年77。墓地は文京区向丘浄心寺であったが、後に染井霊園に改葬された。

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後世の評価

アメリカ合衆国の歴史家ジョージ・エリソンは、井上をアドルフ・アイヒマンと比較した[2][3]

系譜

父母

  • 井上清秀(父)
  • 永田氏(母)

正室

  • 太田重正の娘

子女

  • 井上政次(長男)

出典

関連項目

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