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井村荒喜

実業家、政治家 ウィキペディアから

井村荒喜
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井村 荒喜(いむら あらき[1] / こうき[2]1889年明治22年)11月3日[3][4][注釈 1] - 1971年昭和46年)5月10日[2][3][4])は、大正から昭和期の実業家政治家衆議院議員富山市名誉市民 [4][5]不二越創業者。

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1928年

経歴

長崎県[注釈 2]南高来郡北有馬村[4]今福[6]北有馬町[3]を経て現南島原市)で、農業・井村庄太郎、きく の五男一女の末子として生まれる[6]。有馬高等小学校を卒業し[4]、1907年(明治40年)医師を目指して長崎の行余学舎に入学したが[3]、実家の家計が傾き学舎を中退[3][7][注釈 3]。長崎に残り、新聞配達、新聞記者見習いなどに従事[4]。1913年(大正2年[注釈 4])11月、台湾に渡り台中の帝国製糖[注釈 5]に入社。倉庫係、農場係、鉄道建設係で勤務[8]

1919年(大正8年)中越水電に招かれ支配人に就任[3][4][9]。電力の供給地域の拡大、大口需要の開拓、送電計画の策定などに尽力[10]。その後、常務となるが[11]、1928年(昭和3年)中越水電が富山電気(後の日本海電気)に合併されて退職した[12]

機械工具の国産化が日本の機械工業の成長に不可欠との考えから[13]、1928年12月に不二越鋼材工業を設立した[3][4][14]。ハクソー(金切鋸刃)から生産を始め、精密切削工具、軸受、ゲージ類の量産を実現し、1933年(昭和8年)海軍省指定工場となる[15]。また、戦局の進展に伴い材料の特殊鋼の自家製造の必要性が高まり、呉海軍工廠の工員訓練の協力を得て、1938年(昭和13年)製鋼工場の操業を開始した[16]。戦時中は軍管理工場となり、軍からの強制命令を受けながら事業を進めた[17]

1942年(昭和17年)4月の翼賛選挙翼賛政治体制協議会の推薦を受け富山県第1区から出馬して当選し[3]、衆議院議員を1期務めた[2]。同年8月24日、衆議院議員を辞職した[2][18]。戦後、公職追放となったが[19]、事業面では不二越鋼材工業の資本金がわずかに1億円に届いていなかったため役員の追放を免れ、井村は引き続き経営に携わり会社の復興に尽力した[20]

1963年(昭和38年)社名を不二越に変更し、1964年(昭和39年)3月まで社長に在任した[4]。また、従業員教育のため不二越工科学校(現不二越工業高等学校)を設立して理事長に就任し、不二越病院(のち富山県立中央病院)を建設するなど地域社会のために貢献した[4]

その他、日本工具工業会理事長、東京国際貿易センター監査役、日本鉄鋼連盟理事、富山県経営者協会初代会長、北陸経営者協会連盟初代会長、富山県機械工業会初代会長、富山県商工会議所連合会長、富山テレビ放送初代社長などを務めた[2][3][4]

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不二越社長の退任

井村は創業から社長として不二越の経営を担っていたが、ワンマン体制となり、自分の技術、経営方針を過信して過大な設備投資を続けたため、資本金の二倍に相当する120億円の借入金を抱え、ついに1964年4月の定例役員会で退陣が決定した[21]

著作

  • 述『不二越精神』不二越鋼材工業、1941年。
  • 『忙中閑題』ダイアモンド社、1963年。

脚注

参考文献

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