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伊号第六十一潜水艦
日本の潜水艦 ウィキペディアから
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伊号第六十一潜水艦(いごうだいろくじゅういちせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。伊百六十二型潜水艦(海大IV型)の1番艦。太平洋戦争開戦直前、衝突事故により沈没[2]。
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艦歴
- 1926年(大正15年)11月15日 - 三菱神戸造船所で起工。
- 1927年(昭和2年)11月12日 - 進水
- 1929年(昭和4年)4月6日 - 竣工。佐世保鎮守府籍
- 1932年(昭和7年)11月1日 - 1934年6月まで予備艦となる[4]。
- 1938年(昭和13年)6月1日 - 艦型名を伊六十一型に改正[5]。
- 1939年(昭和14年)3月11日 - 三田尻沖で駆逐艦「矢風」と衝突し損傷。修理を行う[3]。
- 1940年(昭和15年)3月20日 - 第29潜水隊(伊61、伊62、伊64)は佐世保で第三予備艦となる[4]。
- 1941年(昭和16年)1月8日 - 足摺岬南方で「杭州丸」と触衝事故を起す[3]。
- 1942年(昭和17年)1月20日 - 船体引き揚げ。
- 4月1日 - 除籍。
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沈没の状況
1941年(昭和16年)10月2日、佐世保を特設潜水母艦「りおでじゃねろ丸」と共に出航し、艦隊集合地点の山口県室積沖を目指して航行していた。23時21分頃、壱岐水道烏帽子島灯台西方付近で、長崎橘港へ向かっていた特設砲艦「木曾丸」に衝突され沈没。同乗の第29潜水隊司令・久米幾次中佐、広川艦長以下70名が殉職した。衝突の主な原因は「木曾丸」が「りおでじゃねろ丸」を反航した後に目にした赤灯を、小型船と誤認して航行を続けたことにあった[6]。及川古志郎海軍大臣から報告を受けた昭和天皇は、鮫島具重侍従武官を連合艦隊に派遣している[2]。
歴代艦長
※『艦長たちの軍艦史』428頁による。
艤装員長
- 吉富説三 少佐:1928年5月16日 - 1929年4月6日
艦長
- 吉富説三 少佐:1929年4月6日 - 11月5日
- 中邑元司 少佐:1929年11月5日 - 1931年12月1日
- 林一雄 少佐:1931年12月1日 - 1934年6月1日
- 小野良二郎 少佐:1934年6月1日 - 1935年11月15日
- 畑中純彦 少佐:1935年11月15日 -
- (兼)大竹寿雄 中佐:1936年1月27日 - 1936年2月15日
- 藤井明義 少佐:1936年2月15日 - 1936年6月30日
- 石川信雄 少佐:1936年6月30日 - 1937年12月1日[7]
- 松村寛治 少佐:1937年12月1日 - 1938年11月15日
- 大畑正 少佐:1938年11月15日 - 1939年11月15日[8]
- 上野利武 少佐:1939年11月15日 - 1940年3月20日[9]
- (兼)小川綱嘉 少佐:1940年3月20日[9] - 1940年4月15日[10]
- 中村省三 少佐:1940年4月15日 - 1940年10月15日[11]
- 広川隆 少佐:1940年10月15日 - 1941年10月2日殉職
脚注
参考文献
関連項目
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