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伊号第百五十二潜水艦
日本の潜水艦 ウィキペディアから
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伊号第百五十二潜水艦(いごうだいひゃくごじゅうにせんすいかん)は、大日本帝国海軍の潜水艦。艦級は海大2型で同型艦はない。1925年に竣工。竣工時は伊号第五十二潜水艦(初代)という名称であったが1942年に改称され伊号第百五十二潜水艦と称した。実戦に投入されることなく老朽化のために1942年8月1日に除籍。
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概要
本艦(海大2型)は海大1型(伊号第五十一潜水艦 [I])と同じく八六艦隊案で計画された。計画番号S25。伊51から約1年遅れた1925年(大正14年)5月20日に呉海軍工廠で竣工。呉鎮守府籍となる。
計画当初の艦名は第五十一潜水艦であったが、建造途中の1924年(大正13年)11月1日に伊号第五十二潜水艦と改名された。
本艦の主機はズルツァー社に依頼していた大出力ディーゼル機関(3,400馬力)が完成したためそれを搭載した。そのため主機は2基(伊51は1,300馬力ディーゼル4基)となり、船殻は通常の円形断面となった(伊51はめがね型)。また速力を増すため船体はより細長い形状となった。公試では速力21.5ノットを記録したが、新型機関は故障が多く、実用では19.5ノットがせいいっぱいであった。
兵装は12cm砲の他に8cm高角砲1門を装備したとされる。昭和に入り留式7.7mm機銃1挺と交換されたらしい。またケルビン式探信儀を装備したと言われる。[2]
本艦は1隻のみの建造で同型艦はなく試験的な艦であった。後に本艦を改良した海大3型aおよび海大3型bが量産された。
1925年(大正14年)12月1日、伊51と共に第二艦隊第2潜水戦隊第17潜水隊を編成。
1927年(昭和2年)3月8日、広島湾の根拠地を出航しようとしたところ機関が爆発、乗組員5名が投げ出され重軽傷を負う事故が発生。母艦の長鯨で負傷者を呉海軍病院へ移送。[3]
1928年(昭和3年)12月10日、第17潜水隊は呉鎮守府付属となる。
1935年(昭和10年)11月15日、第17潜水隊の解隊に伴い、呉鎮守府付属となる。
太平洋戦争開戦時には呉鎮守府付属。老朽化のため専ら練習潜水艦として使用されていた。1942年(昭和17年)5月20日伊号第百五十二潜水艦と改称。
8月1日、伊152は除籍された。
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潜水隊の変遷
呉鎮守府籍の伊52は海大1型、海大3型aの伊53の3隻で1個潜水隊を編成し、呉鎮の固有番号を与えられて第17潜水隊を編成した。
第十七潜水隊
呉鎮守府籍の伊52と、海大1型の伊51、海大3型aの伊53の3隻で編成。呉で改修や練習に使用され、昭和10年11月15日に解隊された。
艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。
- (心得)松野省三 少佐:1924年9月2日[4] - 1925年12月1日
- 樋口修一郎 少佐:1925年12月1日 - 1927年12月1日
- 堀江吉正 中佐:1927年12月1日[5] - 1928年12月10日[6]
- 駒沢克己 少佐:1928年12月10日 - 1929年11月30日
- 福沢常吉 少佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
- 志波国彬 少佐:1930年12月1日[7] - 1931年7月16日[8]
- 久米幾次 少佐:1931年7月16日[8] - 1932年11月1日[9]
- 奥島章三郎 少佐:1932年11月1日[9] - 1933年4月10日[10]
- 松尾義保 少佐:1933年4月10日[10] - 1934年11月1日[11]
- 浜野元一 少佐:1934年11月1日[11] - 1935年7月3日[12]
- 奥島章三郎 少佐:1935年7月3日[12] - 1936年11月2日[13]
- 遠藤敬勇 少佐:1936年11月2日[13] - 1937年11月15日[14]
- 藤井明義 少佐:1937年11月15日 - 1938年12月15日
- 大谷清教 少佐:1938年12月15日[15] - 1939年2月20日[16]
- 七字恒雄 少佐:1939年2月20日[16] - 1939年11月1日[17]
- 広川隆 少佐:1939年11月1日[17] - 1940年10月15日[18]
- 川崎陸郎 少佐:1940年10月15日[18] - 1941年7月31日[19]
- 大田武 少佐:1941年7月31日[19] - 1941年10月31日[20]
- 関戸好密 少佐:1941年10月31日[20] -
脚注
参考文献
関連項目
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