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伊藤道郎

日本のダンサー、振付師 ウィキペディアから

伊藤道郎
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伊藤 道郎(いとう みちお、1893年4月14日 - 1961年11月6日) は、日本ダンサー振付師

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1919年
概要 伊藤 道郎いとう みちお, 基本情報 ...

東京府東京市神田区生まれ。伊藤為吉の長男。慶應義塾普通部卒業[1]1911年帝国劇場歌劇部に入団し、三浦環との共演でドイツ語のオペラ『釈迦』で初舞台。

渡欧

1911年11月1日に声楽家を志し19歳でパリに留学、シャトレ座ニジンスキーを見る、ロダンや、ドビッシー等と交流をもつ。1912年にドイツに移住、ベルリンではイザドラ・ダンカンの公演を観る。その後、ライプツィヒに滞在、ドレスデン郊外ヘレラウのエミール・ジャック=ダルクローズ舞踊学校に入団。

1914年 第一次世界大戦の影響で英国に渡る。1915年ホルストに 舞踊曲『日本組曲』の作曲依頼をした。1916年にはアイルランドの詩人イェイツと共にを研究し、戯曲『鷹の井戸』の完成に貢献した。

米国

ニューヨークに渡り『武士道(寺子屋)』を演出、1918年にはスタジオを開いた。

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ピチカット[2]を踊る伊藤道郎(1928年 ロサンゼルス)

アメリカ各地を公演で巡業し、1929年にはハリウッドでスタジオを開いた。ニューヨークブロードウェイではミュージカル振り付けを担当している。ニューヨークでアメリカ人女性のダンサー、ヘイゼル(Hezel Wright)と結婚、2人の息子(ドナルドとジェリー伊藤)をもうけた[3]

開戦

1941年、ロサンジェルスに転居後、真珠湾攻撃勃発によりスパイ容疑で逮捕され日系人の強制収容フォート・ミズーラ抑留キャンプなど4箇所に抑留。家族とは音信不通となった。

帰国

1943年(昭和18年)アメリカ国籍の家族を残し、第二次日米交換船で帰国した[4]。戦後はGHQに接収されていたアーニー・パイル劇場(東京宝塚劇場)でオペレッタ「ミカド」を上演。本国以上の演出を行なって見せ、柿の木坂にスタジオを持っていた。アメリカでの活動も再開した[3]1964年東京オリンピックには開会式、閉会式の総合演出を担当したが、開催を待たずして死去した。

墓所は豊島区駒込染井霊園

親族

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伊藤道郎

演劇人の伊藤熹朔千田是也俳優座主宰)、作曲家の伊藤翁介は弟。

戦後次男のジェリーが海兵として来日し再会した[3]。孫(ジェリーの子)は、兄妹デュオ「デビッド&ミシェル」として「菩提樹の丘」(1975年)で日本で歌手デビューした。ミシェルはその後ロサンゼルスでテレビ制作者となった[3]。姪(姉と古荘幹郎の娘)の古荘妙子はダンスの弟子で、道郎没後もダンススタジオを支え、伊藤道郎財団を設立した[3]

出演映画

参考文献

関連文献

  • 片岡康子 著『日本の現代舞踊のパイオニア: 創造の自由がもたらした革新性を照射する』新国立劇場運営財団情報センター2015年(平成27年)ISBN 978-4907223076

脚注

外部リンク

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