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伏見宮邦頼親王

江戸時代の皇族。伏見宮18代。伏見宮貞建親王の次男。母はあるいは家女房。兵部卿。一品、牛車、勧修寺、東大寺別当、一身阿闍梨 ウィキペディアから

伏見宮邦頼親王
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伏見宮邦頼親王(ふしみのみや くによりしんのう)は、江戸時代皇族世襲親王家伏見宮第18代当主。伏見宮貞建親王第2王子。幼称ははじめ孝宮、後に堯宮と改める。旧皇族11宮家全ての最近共通祖先である伏見宮邦家親王の祖父であり、第119代天皇光格天皇 (第122代明治天皇の曽祖父) の三従兄にあたる。

概要 伏見宮邦頼親王, 続柄 ...

経歴

寛保2年(1742年)勧修寺に入り、勧修寺宮尊孝入道親王の附弟となる。延享2年(1745年)11月勧修寺を相続。同年12月桜町天皇猶子となり、延享3年(1746年)5月親王宣下。初名は徳明(のりあきら)。勧修寺に入寺得度しを寛宝入道親王名乗る。延享5年(1748年)東大寺別当。

安永3年(1774年)6月に伏見宮貞行親王が薨去し、伏見宮家が空主となったため、同年11月13日後桃園天皇の勅命により還俗し宮家を相続、名を邦頼と賜り改めて親王宣下を蒙る。安永4年(1775年)2月元服し、兵部卿に任ぜられる。安永7年(1778年)12月二品に叙せられる。ところが、安永8年(1779年)に後桃園天皇が男子を残さずに崩御すると、邦頼親王が天皇を毒殺したとする風説が流れ、京都所司代後桜町上皇までがその詮議に乗り出す騒ぎになったが、間もなくその無実が判明する。天明7年(1787年)鷹司輔平の女・達子と結婚する。天明8年(1788年)京都を焼き尽くした天明の大火で宮邸を焼亡する憂き目にあった。享和2年(1802年)9月7日一品に叙せられるが、翌9月8日薨去。70歳。

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子女

  • 第一王子:貞敬親王(嘉禰宮、1776-1840) - 19代伏見宮
  • 第二王子:公澄入道親王(佳宮、1776-1828)-9代輪王寺宮門跡
  • 第一王女:某女王(利宮、1777-1779)
  • 第二王女:某女王(鉉宮、1777-1778)
  • 第三王女:某女王(艶宮、1778-1784)
  • 第四王女:某女王(章宮、1783-1788)
  • 第五王女:薫子女王(多哉宮、1784-1841)
  • 第三王子:某王(佐保宮、1786-1788)
  • 第六王女:某女王(好宮、1791-1792)
  • 第七王女:某女王(百宮、1792)
  • 第八王女:某女王(繁宮、1793-1795)

参考文献

  • 『伏見宮実録 第13巻 邦頼親王実録』ゆまに書房、2016年3月。

外部リンク


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