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旧皇族

日本の元皇族 ウィキペディアから

旧皇族
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旧皇族(きゅうこうぞく)とは、日本皇室にかつて所属していた者およびその男系子孫。特に、日本国憲法・現行皇室典範施行後の1947年昭和22年)10月14日臣籍降下(皇籍離脱)した11宮家51名およびその男系子孫を指す[1]。『旧宮家』ともいう[2]

概要 旧皇族(伏見宮系皇族), 民族 ...

概要

該当の11宮家は、現在の皇室とは男系での共通の祖先が約600年遡る遠縁である[1]。ただ、明治天皇昭和天皇内親王が嫁いでおり、女系では近縁となる家もある[1]昭和22年(1947年)に臣籍降下(皇籍離脱)して以降、法的には民間人であるが、第二次世界大戦後の混乱期の中で、GHQによる経済的圧迫という異例の事態で臣籍降下を行ったこともあり、それ以降も皇室からは、皇族に准じた扱いを受けている。また、皇位継承問題に関連して、皇族への編入の可能性も指摘されている。

旧皇族の構成

11宮家一覧
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系図
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19代伏見宮
貞敬親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20/23代伏見宮
邦家親王
 
初代梨本宮
守脩親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
初代山階宮
晃親王
 
 
 
 
 
初代久邇宮
朝彦親王
 
 
 
21代伏見宮
貞教親王
 
 
 
 
 
初代小松宮
彰仁親王
 
 
 
2代北白川宮
能久親王
 
初代華頂宮
博経親王
 
初代北白川宮
智成親王
 
22/24代伏見宮
貞愛親王
 
6代閑院宮
載仁親王
 
初代東伏見宮
依仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2代梨本宮
2代山階宮
菊麿王
 
初代賀陽宮
邦憲王
 
2代久邇宮
邦彦王
 
3代梨本宮
守正王
 
初代朝香宮
鳩彦王
 
初代東久邇宮
稔彦王
 
初代竹田宮
恒久王
 
3代北白川宮
成久王
 
2代華頂宮
博厚親王
 
 
 
 
 
3代華頂宮
25代伏見宮
博恭王
 
7代閑院宮
春仁王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3代山階宮
武彦王
 
2代賀陽宮
恒憲王
 
3代久邇宮
朝融王
 
 
 
 
 
2代
孚彦王
 
盛厚王
 
2代
恒徳王
 
4代北白川宮
永久王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
博義王
 
4代華頂宮
博忠王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3代
邦寿王
 
4代
治憲王
 
章憲王
 
4代
邦昭王
 
 
 
 
 
3代
誠彦王
 
2代
信彦王
 
3代
恒正王
 
5代北白川宮
道久王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26代伏見宮
博明王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5代
正憲
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3代
征彦
註:曙色背景は皇籍離脱時の当主。東伏見宮家は依仁親王はすでに薨去しており、未亡人の周子妃が当主。
皇籍離脱時の該当者一覧(51名)
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歴史

要約
視点

伏見宮の創設と伏見宮系皇族の発展

Thumb
世襲親王家伏見宮から即位した後花園天皇/現皇室の直系先祖である。

旧皇族を構成する11宮家は、いずれも伏見宮を共通の祖にもつ。

そもそも宮家とは、皇統天皇男系子孫の血統)に属するが皇位は継がなかった傍系の皇族が、皇室荘園の一部を自身の所領として自らの子孫に相続させる(同時に、所領の地名などを冠した宮号を継承させる)ことで成り立っていたが、その多くは数代で廃絶した。

ところが正長元年(1428年)、時の称光天皇嗣子なく崩御した際、宮家の一つであった伏見宮嫡男後花園天皇が皇位を継承する。この時、天皇の勅命により、伏見宮は「永代親王家」と定められ、宮号の継承者は代々、時の天皇または上皇猶子として親王身位を得ること(親王宣下)、正統(しょうとう、皇統の内で天皇の位を継いでゆく血統を指す)が絶えた時はこれを受け継ぐべく控えることが定められた。この制度は世襲親王家と呼ばれ、桂宮有栖川宮閑院宮の3家が新たに加わる。

幕末宮廷においても、伏見宮は「伏見殿」と呼ばれ、代々の天皇家の出身宮家として、天皇と同様な存在とみなされていたという[4]。伏見宮家の皇族の中でも顕著な活動を見せた人物としては、朝彦親王(中川宮)が、孝明天皇の信頼を得てその治世を補佐したほか[5]戊辰戦争においては、輪王寺宮公現法親王上野戦争時に幕府方の旗印として寛永寺に立てこもり、更には奥羽越列藩同盟の盟主として「東武皇帝」として即位していたという説もある[6]

明治維新前後、伏見宮家の第19代貞敬親王および第20代・第23代邦家親王の王子が還俗して、新たな宮号を名乗る。当初はこれらの宮家は、一代限りとする予定であったが、時の明治天皇は男子に恵まれず、唯一成人した嘉仁親王(大正天皇)は病弱であったことから、明治天皇の強い意向の下で、皇統の存続に万全を期すべく[7][8]、これらの新立の宮家も存続されることになり、明治22年(1889年)制定の皇室典範において、永世皇族制が採用される。一方、宮号の継承は直系の子孫に限定され、他の皇統への継承が禁じられたことにより、空位であった桂宮はこの時点で廃絶、閑院宮はこれ以前に伏見宮の皇統に移り、有栖川宮も大正2年(1913年)に廃絶されたことで、大正初期以降の皇室の成員は、大正天皇とその近親者以外の圧倒的多数が、伏見宮の皇統に属する者になった。そのため、特に彼らのことを総称して「伏見宮系皇族」と言うようになった。これらの宮家は、明治天皇の4人の皇女北白川宮竹田宮朝香宮東久邇宮の男性皇族と婚姻するなどして、血縁関係を深めた。もっとも、大正天皇が無事に成人して4人の男子に恵まれ、ひとまず皇位継承の危機は去ったことから、大正後期以降は、伏見宮系皇族の増加抑制、臣籍降下が行われた。

近代の皇族については、王政復古の影響やヨーロッパの王侯貴族に倣い、男性皇族は軍務に就いて国家に貢献することが義務付けられており(「皇族身位令」)、伏見宮系皇族も多くがこれに従った。実際に戦場に立った皇族もおり、伏見宮博恭王日露戦争の際に軍艦三笠の分隊長として戦闘に加わり[9]太平洋戦争では、竹田宮恒徳王関東軍参謀として中国大陸に、閑院宮春仁王が戦車第五連隊長として満州牡丹江に出征している[10]臣籍降下した元皇族の中では、伏見博英音羽正彦が従軍中に戦死している[11]

昭和20年(1945年)の第二次世界大戦敗戦時にも、昭和天皇の求めにより、皇族一同が平和達成の目的のため協力した。東久邇宮稔彦王首相に就任(東久邇宮内閣)、敗戦後の事態収拾にあたったほか[12]、各地の戦地に皇族が派遣されてポツダム宣言受諾の天皇の意思を伝え、日本軍降伏の任にあたった[注釈 7]。また、12月には天皇の意を受けて、各皇族が分担して歴代天皇陵に終戦の報告、代拝を行った[14]

一方で、連合国の占領政策により天皇にもしものことがあった場合に備えて、陸軍中野学校出身者により北白川宮道久王を新潟県某所に匿う皇統護持作戦も計画されていた[15]。昭和20年(1945年)12月には、梨本宮守正王が連合国から戦犯指定を受けて巣鴨拘置所に収監された(1947年3月に釈放)[16]。梨本宮の戦犯指定は、天皇にも戦争責任が及ぶのではないかという危惧を日本国民に与え、当時の日本社会に大ショックをもたらしたという。梨本宮本人も天皇の名代であると認識していた[17]

これらはいずれも、敗戦という国難に旧皇族が天皇の名代として「ノブレス・オブリージュ」の責務を果たしたと評価される[18]

臣籍降下

伏見宮系の11宮家は、GHQによる日本の占領統治の中で経済的圧迫を受け、臣籍降下を余儀なくされる。その背景には、GHQの政策によって、皇室の予算の主要源となっていた皇室財産国庫に帰属されたことで、皇室が財政的な打撃を受けたことに加え、GHQが、皇統の安定化のための控えという宮家の役割を認識しておらず、皇位継承の可能性の低い傍系の宮家(伏見宮系)を皇室にとどめておく意味を見出していなかったことがある[19]

昭和天皇は、特段の条理のない限りは、現存する14宮家を統べて皇室に残す考えであったが[20]、GHQによる皇室縮小路線を前にしてやむを得ず、弟宮である秩父高松三笠の3宮家を残して、残りの伏見宮系11宮家を全て臣籍降下させることを決意。日本国憲法施行後の昭和22年(1947年)10月14日、新皇室典範の定めに基づいて開かれた皇室会議の議決に基づき、11宮家51名が臣籍降下した。それぞれ宮号から「宮」の字を除いたものを名字として名乗った。

皇籍離脱後の伏見宮系皇族

皇室とのかかわり、待遇

11宮家の皇籍離脱時、昭和天皇は

身をつつしみ、貴賓ある御生活をしていただき度い。出来るだけの御補助はいたすつもりである[21]昭和21年11月29日、昭和天皇の臣籍降下を言い渡す言葉を梨本伊都子が同日の日記に記録
従来の縁故と云ふものは今後に於いても何等変るところはないのであつて将来愈々お互いに親しく御交際を致し度いと云うのが私の念願であります[22]昭和22年10月18日、お別れの晩餐会における昭和天皇の挨拶を昭和天皇実録の同日条に記録

と述べ、皇室としては従来と変わらぬ交際を行うこと、宮家として品位ある存在であり続けるために皇室の側からもできるだけ援助はしたいことを言明した。

実際、経済的に困窮する旧皇族の存在については宮内庁も非公式に把握しており、臣籍降下から10年余りが経過した昭和33年(1958年)時点では、瓜生順良宮内庁次長が国会において、旧皇族は宮内庁が特別の世話をする対象ではないとした上で「相談相手になるということもございます」「元皇族の方で相当経済的にもお困りの方もあるようでございます」と答弁している[23]

一方、旧皇族の皇室との交際、宮中行事における待遇については、皇籍離脱と前後して、内部文書「近く臣籍降下する宮家に対する降下後の宮中における取扱方針」が策定され、天皇の聴許を得ている。これらの文書およびその後の運用をもとに、皇室が旧皇族に以下のような待遇を与えていることが判明している。

  • 元日及び天皇誕生日に、旧皇族は拝賀を行う。具体的には、憲法に定めた国事行為としての「祝賀の儀」があり、これに先立って皇族・旧皇族の順番に天皇皇后に挨拶を行う[24]
  • 宮中祭祀については、旧皇族へ参列の案内が出されている[25]
  • 参内・拝謁が認められており、昭和天皇の長女・成子内親王が嫁いだ東久邇宮家を筆頭に、各宮家が随時拝謁を行っている。また、成人・結婚をした際にも拝謁をしている[26]。この他、年末にも宮家合同で挨拶を行っている[27]
  • 陪食・賜茶(会食)を行う。おおむね1年に2度~2年に1度のペースで召かれるほか[28]、皇室の慶事に際しては臨時で開かれる[29]。また、これとは別に、皇族・旧皇族の親睦団体である菊栄親睦会の大会が数年に一度開かれ、天皇が招待を受ける。
  • 園遊会および即位の礼においては、旧皇族は内閣総理大臣よりも上位の席次で召かれる。

また、皇室ゆかりの神道関連の要職に就いた事例も多く、北白川房子明治天皇第七皇女)は女性初の神宮祭主に就任し、以後、神宮祭主は皇籍を離れた皇女が務めることが慣例となった。また、伊勢神宮大宮司には久邇邦昭北白川道久が就任している。

北白川祥子賀陽正憲など、職業として宮内庁に勤務して、時の天皇に仕えた者もいる。

久邇朝融香淳皇后の兄)や、東久邇成子(昭和天皇第1皇女)・東久邇盛厚夫妻の比翼塚[30]など、一部の旧皇族は豊島岡墓地に葬られている。

民間人としての動静

「旧皇族」の人々は、私生活においては民間人である。自らの努力やその人脈・婚姻により社会的・経済的に高い地位や知名度を誇るものもいる(後述)一方で、庶民に混じって静かに生活してきた者がほとんどだった。皇籍離脱と時を同じくして高額の財産税が賦課され、別邸や宝物類を売り払って工面するなど、経済的には苦戦する事例が多かった。昭和25年(1950年)には、久邇通子、伏見章子、北白川肇子の3名が光文社の少女誌『少女』1月号中「元女王さまの座談会」で質素な近況を話している。

旧皇族という立場を悪用され、トラブルに巻き込まれた事例もあった。久邇朝融(香淳皇后の兄)は、昭和22年(1947年)に時事新報による皇后の単独会見記事の捏造に関与し、皇后が自ら取材を否定する事態となった[31]。また、元首相の東久邇稔彦は、住居地を巡って、昭和37年(1962年)6月27日に、政府を相手に所有権確認の訴訟を行い、このことは国会でも取り上げられた[32]

「お妃候補」としての報道

昭和27年(1952年)に明仁親王(当時、のち第125代天皇、現上皇)が立太子を迎えて以降、1950年代には旧皇族の複数の少女たちが「お妃候補」であるとしてマスコミ取材を受けた[33]

うち北白川肇子は最有力者として、特に世間の注目を受けている(本人の項目を参照)。東宮侍従だった黒木従達によれば、実際に先例及び旧皇室典範に倣い、旧皇族(11宮家)及び五摂家から「お妃候補」を選定しようとしたが、血縁の近さや、遺伝性の病気の有無等がネックになり、結局、誰も候補者が残らなかった[34]。また黒木は、有力な候補者だった「元皇族令嬢」は近縁であることを理由に、早期に候補者から外していたとしている[35]

昭和末期、浩宮徳仁親王(当時、現今上天皇)が成年を迎えた1980年代以降も、旧皇族の末裔にあたる女性たちが「お妃候補」として名指しで報じられていた[36]

皇位継承問題を巡る中での注目

伏見宮系皇族の臣籍降下以降の皇室においては、昭和40年(1965年)の秋篠宮文仁親王の誕生以来、男子が生まれない期間が長く続いた。令和初年時点での若年の皇族は平成18年(2006年)生まれの悠仁親王のみとなっており、正統が断絶する可能性が高まっている。この問題への解決策として、旧皇族が皇籍に復帰して、正統が途絶えた時に皇位を継ぐという世襲親王家の役割を果たす案が示されている。

なお、旧皇族の皇籍復帰の可否に関する政府の見解としては、平成17年(2005年)、小泉純一郎首相の私的諮問機関皇室典範に関する有識者会議』は、旧皇族男性が養子として皇籍復帰する案について「当事者の意思により継承順位が左右され、一義性に欠ける」として否定的見解を出し、女系天皇を新たに認める考えを示した[37]。その後、令和3年(2021年)、菅義偉内閣の下で組織された『「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議』の報告書では、皇位継承問題に対する複数の対策案の中で、「皇族には認められていない養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とする」「皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とする」というものがあり、それぞれ、旧皇族の皇籍復帰を前提とする内容になっている。これについて政府は、旧皇族の臣籍降下は、昭和天皇の近親者のみでの男系男子の皇位継承は可能であるとの見立て(立法事実の確認)で行ったが、現状その見立てが成り立たなくなったことを受けて、改めて旧皇族が皇籍に復帰する解決策はありうる旨を答弁した[38]。また、内閣法制局も、旧皇族の皇籍復帰は、日本国憲法第14条(門地による差別の禁止)には違反しない、との見解を示している[注釈 8][39]

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備考

要約
視点

臣籍降下後に著名な活動がある旧皇族

1947年昭和22年)に離脱をした本人
離脱後に旧宮家に誕生した者
旧皇族の親族等

旧皇族邸

すべて都心6区に所在している。京都に別邸もある。

Thumb
朝香宮邸(現:東京都庭園美術館) 。
Thumb
京都御苑内、旧閑院宮邸。

なお、プリンスホテルの社名は、ホテルの建物が旧皇族の手放した土地に立地していることに由来している。

フィクションにおける旧皇族・宮号

女王蜂横溝正史
1951年(昭和26年、連載当時の現代)の日本を舞台とした推理小説。作中のキーパーソンが連なる架空の旧宮家として「衣笠宮(きぬがさのみや)」が登場する。
豊饒の海三島由紀夫
第1巻『春の雪』に、「春日宮(かすがのみや)」「洞院宮(とういんのみや)」が登場する。
むらぎも(中野重治
主人公の東京帝国大学の同窓生として「村田ノ宮(むらたのみや)」が登場する。作者自身の自伝的小説であり、実際に中野と同学年に山階宮家藤麿王が在学していた。
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脚注

参考文献

関連項目

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