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佐世保市立成徳高等女学校
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佐世保市立成徳高等女学校(させぼしりつせいとくこうとうじょがっこう)は、明治期に長崎県佐世保市に設立された旧制の高等女学校。略称は「成徳」、「成徳高女」。
長崎県立佐世保南高等学校と長崎県立佐世保北高等学校の前身の1つとなった学校である。
概要
- 歴史
- 1902年(明治35年)に開校した「私立佐世保女学校」を前身とする。創立者は高等小学校教師であった山北トミ。佐世保新聞記者の大坪喬儀とともに佐世保市に女子技芸学校の必要性を唱え、市内有志から支援を受け、山北自身も私財をなげうち佐世保市初の女学校を創立した。その後、数回の改称を経て1922年(大正11年)5月に「佐世保市立成徳高等女学校」、1948年(昭和23年)4月学制改革により「佐世保市立成徳高等学校」となった。その半年後には佐世保市内普通科高等学校5校の統合が決定し、翌年1949年(昭和24年)2月に長崎県立佐世保南高等学校と長崎県立佐世保北高等学校の2校が誕生し、成徳高等女学校・成徳高等学校は閉校した。
- 閉校後も成徳高等女学校同窓会は存続され、2002年(平成14年)に創立100周年を迎えた。
- 校風
- 「質実剛健」「良妻賢母」[1]
- 校章・校旗
- 八稜鏡[2]を背景に、校名「成徳」の文字(縦書き)を置いている。なお、成徳高等女学校の校旗は現在長崎県立佐世保北高等学校 校長室前に掲示されている。
- 校歌
- 1928年(昭和3年)12月に制定。作詞は大西祐八(第7代校長)、作曲は黒部峯蔵による。3番まであり、校名の「成徳」が歌詞に登場する。
- 「美しき天然」(読みは「うるわしきてんねん」)[3]
- 1902年(明治35年)に作曲家田中穂積によって作曲された。佐世保鎮守府に第3代軍楽長として赴任した田中は、成徳高等女学校の前身である佐世保女学校の音楽教師も務め、同校の音楽教材として「美しき天然」を作曲した。この曲は日本初のワルツ曲[4]と言われ、昭和初期に校歌が制定されるまで校歌代わりとして使用された。
- 作詞は国文学者の武島羽衣による。
- 同窓会
- 「成徳会」と称し、東京、関西、北九州、福岡、佐賀、長崎、熊本、諫早、松浦・北松、大村・東彼、武雄温泉地区に支部を置いていた。
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沿革
- 1902年(明治35年)
- 1903年(明治36年)4月 - 山北トミが校長に就任。裁縫科を専科に、別科を技芸科に改定。教員養成科の修業年限を一ヶ年に変更。
- 1904年(明治37年)
- 3月 - 第1回卒業式を挙行。本科・本科補習科・技芸補修科・専科補習科・教員養成補習科・専科)
- 5月 - 七種純一郎が校医に就任。
- 11月 - 比良町149番地に新校舎が完成し、移転。
- 1908年(明治41年)
- 4月 - 山北トミが校長を辞任し、夫とともに朝鮮半島へと渡る。
- 5月 - 教員養成科・専科を廃止し、本科の修業年限を4ヶ年、技芸科の修業年限を3ヶ年とする。
- 1909年(明治42年)4月 - 技芸科分教場 兼 寄宿舎を設置。
- 1912年(大正元年)
- 9月 - 高等女学校令により、「私立成徳高等女学校」と改称。
- 11月 - 授業料を月1円50銭に値上げ。
- 1913年(大正2年)
- 1915年(大正4年)10月 - 初の修学旅行を実施。
- 1917年(大正6年)
- 9月 - 佐世保市より佐世保市立八幡小学校[6]跡を貸与され、八幡町60番1号に移転。
- 10月 - 万徳町に寄宿舎が完成。
- 1919年(大正8年)
- 6月 - 校名から私立を除き、「成徳高等女学校」に改称。
- 7月 - 授業料を月2円に値上げ。
- 8月 - 家事実習室が完成。第1回敬老会を実施し、70歳高齢者を招待。(1922年(大正11年)の第4回まで)
- 1920年(大正9年)
- 3月 - 授業料を月2円50銭に値上げ。
- 8月 - 佐世保市立保立小学校[6]仮校舎跡3教室を佐世保市から借り入れる。
- 1921年(大正10年)
- 1922年(大正11年)5月 - 市移管に伴い、「佐世保市立成徳高等女学校」に改称。
- 1923年(大正12年)
- 1924年(大正13年)
- 1925年(大正14年)11月 - 国民精神興証書下賜奉読式を挙行。
- 1927年(昭和2年)
- 1月 - 八幡町33番地に移転が決定。
- 7月 - 学友団を結成。通学区を15に分け、自治活動を行うというものであった。
- 1928年(昭和3年)
- 1929年(昭和4年)
- 1931年(昭和6年)11月 - 昭和天皇奉迎に全校生徒が参加。
- 1933年(昭和8年)
- 4月 - 授業料を3円80銭に値上げ。
- 6月 - 童話研究会を開催。
- 7月 - 水泳部を設置。野崎海水浴場で5日間水泳大会を実施。
- 11月 - 全国応募で4年生徒の作品「世界は仲よし」が優秀賞を受賞。山田耕筰によって作曲され、日本全国・世界へ放送。
- 1934年(昭和9年)
- 1936年(昭和11年)- 防空演習を実施。
- 1937年(昭和12年)- 初めて志佐(現・松浦市志佐町)で臨海学校を実施。
- 1939年(昭和14年)- 研究科を設立。満鮮旅行を中止。
- 1940年(昭和15年)- 新入生の制服は4年生が、体操服は3年生がミシンで手作りするようになる。
- 1941年(昭和16年)- 修業年限5ヶ年が認可されるも、実施は不可。校舎を増築。全校生徒制服を改造。セーラー服が禁止となる。
- 1942年(昭和17年)- 敵性語として英語の授業がなくなる。
- 1943年(昭和18年)4月 - 国からの要請で戦時託児所として成徳保育園を併設し、4年生の保育実習を開始。戦況の悪化に伴い、修学旅行が中止。
- 1944年(昭和19年)
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)
- 4月 - 成徳高等女学校最後の入学式を挙行。
- この年 - 文化活動が復活。外地からの引揚者が編入。
- 1947年(昭和22年)
- 1948年(昭和23年)
- 1949年(昭和24年)
- 長崎県立佐世保南高等学校#沿革、長崎県立佐世保北中学校・高等学校#沿革も参照。
- 閉校後・同窓会の活動等
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歴代校長
()内は前職, 就任〜在任期間を表す。
- 初代 - 大坪喬儀 (佐世保新聞記者, 1902年(明治53年)4月 〜 1903年(明治36年)5月までの1年間)
- 第2代 - 山北トミ (高等小学校[18]教師, 1903年(明治36年)5月 〜 1908年(明治41年)4月)- 辞任後は朝鮮半島に渡り、仁川高等女学校の教員を務める。
- 第3代 - 高田眞雄 (静岡県浜松高等女学校より, 1908年(明治41年)4月 〜 1916年(大正5年)8月)
- 第4代 - 播本常次 (1917年(大正6年)2月 〜 1918年(大正7年)2月)
- 第5代 - 北村倉之助 (戸尾尋常高等小学校より, 1919年(大正8年)3月 〜 1922年(大正11年)6月)- 退職後は若松市立高等女学校へ。
- 第6代 - 椛島駒次 (若松市立高等女学校より, 1922年(大正11年)6月 〜 1926年(大正15年)4月、在職中に死去)
- 第7代 - 大西祐八 (長崎県立長崎高等女学校より, 1926年(大正15年)6月 〜 1933年(昭和8年)9月)
- 第8代 - 寺田健一 (長崎県立五島中学校より, 1933年(昭和8年)9月 〜 1944年(昭和19年)4月)- 退職後は佐世保市学務課長へ。
- 第9代(最終)- 中村健次郎 (長崎県立壱岐中学校より, 1944年(昭和19年)4月 〜 1948年(昭和23年)11月[19])
生徒会活動・部活動
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生徒会活動は部活動を含め、「学友会」・「校友会」と呼ばれていた。
脚注
参考文献
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