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保科正英
日本の江戸時代前期の武士 ウィキペディアから
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保科 正英(ほしな まさふさ)は、江戸時代前期の上総国飯野藩の世嗣。旗本寄合席。通称は百助、主水。旗本保科氏初代当主。
生涯
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母方の叔父である保科正貞の養子となり、寛永16年12月26日(1640年)に徳川家光へ初御目見する。しかしながらその後廃嫡され、飯野藩嫡子の座は、正貞の長男・正景が就いた。正景が飯野藩主となると、安房国長狭郡2000石を分知されて旗本寄合席となる。
のちに長男・小出英勝は父・吉英の養子となって小出姓を名乗る。
延宝3年(1675年)に家督と知行は次男・正静に譲って隠居する。延宝6年(1678年)に死去。享年68。墓所は麻布の天眞寺で代々の葬地とする。法名は是即。
なお武鑑では使番や先手弓頭時代の正静の父を「保科主水」ではなく「小出修理」と掲載しているが、正英の兄が小出吉重(修理亮)ではあるものの、理由は不明である。
系譜
参考文献
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