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入来院重聡

日本の戦国時代の武将 ウィキペディアから

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入来院 重聡(いりきいん しげさと)は、戦国時代武将入来院氏11代当主。

概要 凡例入来院重聡, 時代 ...

生涯

入来院重豊の嫡子として誕生。本貫地である薩摩国入来院の他に、薩摩では永利名山田・草原・田崎・天辰(以上、現・薩摩川内市)・羽島(現・いちき串木野市)、大隅国では平松・森山・前原(以上、現・姶良市)を領し、筑前国筑後国にも飛び地を有していた。

重聡は延徳2年(1490年8月21日に家督を相続、これより守護島津氏方として忠勤し、永正7年(1510年)に12代守護島津忠治より隈之城を与えられている。享禄2年(1529年)には、薩州家島津実久と戦い、百次・山田(共に現・薩摩川内市)以西を攻略した。

このころ島津家は、守護職を与えられた島津貴久と、守護職復帰を企てる島津勝久、守護簒奪を企図する島津実久の三派に分かれるが、重聡は享禄3年(1530年)より島津忠良・貴久父子に従い軍功を為し、以後より終生変わらずこれに付き従う。また、享禄・天文の頃、忠良の所望により自身の娘(雪窓夫人)を貴久に嫁がせた。雪窓夫人は島津四兄弟といわれる貴久の男子のうち、義久義弘歳久の三名を生んでいる。

天文5年(1536年)7月、度々の軍功により百次城を、天文6年(1537年)3月には郡山城を安堵される。その後、天文6年(1537年)1月の伊集院竹山城攻めなどにも参加し忠孝を為したが、天文8年(1539年)閏6月に貴久が市来平城を攻め落とすと、老体のために軍労を果たせないことを理由に暇を申し出て、嫡子・重朝に後事を託した。天文年間(1532年 - 1555年)に病死した。

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参考文献

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