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六郷政晴
日本の江戸時代前期~中期の大名 ウィキペディアから
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六郷 政晴(ろくごう まさはる)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。出羽国本荘藩の第4代藩主。官位は従五位下・伊賀守、阿波守。
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生涯
延宝3年(1675年)、第3代藩主・六郷政信の長男として誕生した。
貞享2年(1685年)9月22日、政信の死去により家督を相続した。元禄3年12月26日(1691年)、従五位下・伊賀守に叙任された。元禄4年(1691年)5月28日、お国入りの許可を得た。元禄6年(1693年)1月28日、奥詰に就任した。元禄7年(1694年)11月11日、奥詰を退任した。
治世中に隣接する旗本・仁賀保挙誠と、領民の紛争を契機に争いが起こっている。本荘藩の領民が仁賀保氏領の冬師山の木を伐採したことで領民同士が争い、藩と仁賀保氏との争いへと発展した。将軍直参の旗本である仁賀保氏は幕府に裁定を持ち込み、争いは足掛け7年に及んだが、最終裁定は本荘藩に有利なものとなった。
また、正徳2年(1712年)には同じく隣接する亀田藩との間で、真木山の権益を巡っての争いが始まるが、これが解決するのは百余年のちのこととなる。享保11年(1726年)、長男の政英を病弱を理由に廃嫡した。享保20年(1735年)閏3月2日、次男の政長に家督を譲って隠居した。
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系譜
父母
正室
側室
- 笹瀬氏
子女
脚注
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