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円仁将来目録

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円仁将来目録(えんにんしょうらいもくろく)は、日本平安時代に渡航した僧侶・円仁がもたらした品物の目録の総称。

  • 日本国承和五年入唐求法目録』(にほんこくじょうわごねんにっとうぐほうもくろく、本項では『入唐目録』と略す)
  • 慈覚大師在唐送進録』(じかくだいしざいとうそうしんろく、本項では『在唐送進録』と略す)
  • 入唐新求聖教目録』(にっとうしんぐしょうぎょうもくろく、本項では『新求目録』と略す)
概要 日本国承和五年入唐求法目録, 作者 ...
概要 慈覚大師在唐送進録, 作者 ...
概要 入唐新求聖教目録, 作者 ...

の3つが存在する。

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円仁の入唐と目録の作成

円仁は、承和5年(838年)に天台請益僧として遣唐使に随行し、翌年開成4年(839年)4月、将来品を帰国する遣唐使船(本船3隻、新羅船8隻)のうちの新羅船第八船の伴須賀雄に託して、不法に唐に残留することにした[4]。しかしすぐに中国の官憲に発見され、4月10日、まだ出発していなかった本船第二船に乗船させられ出航する[5]。『日本国承和五年入唐求法目録』には開成4年4月20日に作成されたとあり、つまりこの船上で朝廷や延暦寺への報告のために作成されたとみられる。当然、新羅船第八船舶載の将来品は手元にはなく、予めメモが作成されていたと考えられる[6]。この後6月に円仁は文登県清寧郷赤山村にて下船して、再び残留を謀った。『入唐目録』は本船第二船が出航する前日7月14日に円仁と粟田録事(粟田碓雄か)が最後の別れを交わすまでの間に粟田録事に託された[7]。7月21日、偶然にも大使藤原常嗣らの船団が赤山浦に停泊した。この時、円仁は会いに来た粟田家継に後述の手紙を託したとみられる[8]

承和6年(839年)8月、目録を載せた本船第二船と新羅船1隻以外の計9隻が帰朝した[9]。当然、先の目録は届いていないため、延暦寺は承和7年(840年)1月19日に将来品の目録を作成した[10]。これが『慈覚大師在唐送進録』であり、延暦寺の三綱である都維那仁全・寺主治哲・上座叡道の署名がある[11]。よって、『入唐目録』と『在唐送進録』には重複が多い一方で排列が異なっている[12][11]。また、末尾に円仁の手紙が二ヶ所引用されている。一つは別物の「封皮箱」についてで、その中身を書いた上で開けるなと指示している。もう一つは、将来物を延暦寺に送るという箇所で、目録を本船第二船の粟田録事に託しことも書かれている[10]。幸いにして、第二船は「南海賊地」に漂着するも、その人員は同年4月と6月に帰朝した[13]

承和14年(847年)9月19日、円仁は大宰府に到着し、年末までに大宰府の鴻臚館で『入唐新求聖教目録』を作成した[14]。この目録では、長安五台山揚州という順で将来品を記載しているが、小南沙月は、先に手元の分を記載し、その後延暦寺から『入唐目録』か何かを持ってこさせて、その分を書き加えたと推測している[15]

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写本

要約
視点

日本国承和五年入唐求法目録

青蓮院本(円仁入唐求法目録〈開成四年四月二十日/〉)
青蓮院旧蔵本で現在は京都国立博物館所蔵。奥書に嘉保2年(1095年)7月16日に「以前唐院之本写得也」とある。前唐院は円仁の将来品を収めていた建物である。1979年6月6日重要文化財[16]
旧個人蔵本
現在は京都国立博物館所蔵で、上記「円仁入唐求法目録〈開成四年四月二十日/〉」の附指定となっている。奥書に保安4年(1123年)に嘉保2年の前唐院本を書写したとあるため、「青蓮院本」を書写したものとみられる。但し、この写本の紙背文書には寛元3年(1245年)、宝治2年(1248年)の日付があるため、この写本は鎌倉時代のものということになる。
四天王寺本
1984年、石田尚豊が紹介。

出典:小南(2016) pp. 3-4. 小南(2018b) p. 268

慈覚大師在唐送進録

青蓮院本(円仁入唐請来書目録〈承和七年正月十九日/〉)
嘉承3年(1108年)7月1日に院昭が三光房律師の本を書写。1989年6月12日重要文化財[11]
比叡山南渓蔵本
『勘定前唐院見在書目録』・『前唐院法文新目録』・『入唐新求聖教目録』・『御経蔵宝物聖教等目録』・『承和七年慈覚大師送延暦寺聖教目録』の合本[3]。『承和七年慈覚大師送延暦寺聖教目録』が『在唐送進録』である。天明3年(1783年)、実霊が書写。1965年、小野勝年が紹介。

出典:小南(2016) p. 3. 小南(2018b) p. 267

入唐新求聖教目録

青蓮院本
『八家秘録及諸真言目録』10帖のうちの1帖であり、『八家秘録及諸真言目録』は1989年6月12日に重要文化財に指定されている[17]。奥書には勝豪が双厳院蔵本・円融房蔵本と校合し、寛治5年(1091年)10月16日に校了したとある。小南(2017a)によれば、青蓮院本に記載され下記刊本2種に未記載の書目が56点、逆に刊本2種に記載され青蓮院本に未記載の書目が6点ある。
高山寺
『入唐八家請来目録』下巻に収録
比叡山南渓蔵本
上記『在唐送進録』「比叡山南渓蔵本」の合本のうち『入唐新求聖教目録』と『御経蔵宝物聖教等目録』に収録された目録計11点のうちの一点の計2点であるが、いずれもは梵字経典を中心とした抄本である。前者の奥書には天明3年(1783年)7月30日、実霊が鶏頭院蔵本を書写したとある。後者は奥書は無いが、筆跡が同じである。
叡山文庫池田史宗蔵『慈覚大師請来目録』
文政3年(1820年)、真超が東寺観智院本を書写。
叡山文庫池田史宗蔵『前唐院経蔵目録』
上記『在唐送進録』・『新求目録』「比叡山南渓蔵本」の合本の写本。寛政9年(1797年)9月、谷什善坊が書写。
慶応義塾大学
巻子。延文4年(1359年)4月9日、賢宝が書写[18]

出典:小南(2017a) pp. 67-69. 小南(2018b) p. 266

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刊本

に全て所収。しかしながら底本は『大正新脩大蔵経』の『入唐目録』の底本が大谷大学蔵の江戸時代の刊本、『新求目録』の底本が高山寺本であること以外不明である[19]

小南(2016)には『入唐目録』の「青蓮院本」の翻刻、『在唐送進録』の「青蓮院本」の翻刻が掲載されている。また、小南(2017a)には『新求目録』の「青蓮院本」と「比叡山南渓蔵本」の翻刻が掲載されている。

将来品の一覧

要約
視点

小南(2016), 小南(2017a), 小南(2017b), SATデータベースを基に作成。数字は掲載順。

  • 目録→主に青蓮院本『入唐新求聖教目録』, 小南(2017a)による
  • 入唐録→青蓮院本『日本国承和五年入唐求法目録』, 小南(2016), aは青蓮院本になし
  • 在唐送進録→青蓮院本『慈覚大師在唐送進録』, 小南(2016), aは青蓮院本になし
  • 青新求→青蓮院本『入唐新求聖教目録』, 小南(2017a)
  • 大新求→大正新脩大蔵経『入唐新求聖教目録』, SATデータベース
  • 大正蔵→『大正新脩大蔵経』での相当作品の収録番号, 小南(2016)と小南(2017b)
  • 備考→小南(2016)と小南(2017b)など
さらに見る 目録, 入唐録 ...
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出典

参考文献

関連項目

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