トップQs
タイムライン
チャット
視点

分部光実

江戸時代中期から後期の大名。近江大溝藩8代藩主。分部家9代。従五位下・左京亮。分部光庸の長男。子に唯之助(三男、側室) ウィキペディアから

Remove ads

分部 光実(わけべ みつざね)は、江戸時代中期から後期にかけての大名近江国大溝藩8代藩主。分部家9代。官位従五位下左京亮

概要 凡例分部光実, 時代 ...
Remove ads

生涯

宝暦6年(1756年)5月22日[1]、または6月21日[2]、7代藩主・分部光庸の長男として[2][3]、大溝にて誕生[3]。母は黒川氏[3]

天明5年(1785年)3月10日、父が隠居したため、その跡を継いだ[3]。4月19日には初めて領国入りをするための暇が認められた[3]。天明5年(1785年)6月、藩校修身堂[注釈 1]を創設し[5]中村鸞渓(中村徳勝)[注釈 2]をその長(文芸奉行)に任命した[5][7]。天明6年(1786年)12月18日、従五位下左京亮に叙任[3]

天明8年(1788年)6月には心学者の中沢道二を登用するなどして学問発展に尽くした。また、藩内で博打などが横行して士風が緩んでいたため、博打を禁止し、厳格な法令を制定することで風紀の立て直しを図った。藩財政においても窮乏化を再建するため、自らが厳しく倹約することで見本とした。寛政3年(1791年)には大倹約令を出した[8]

文化5年(1808年)4月14日[1]、または4月23日死去[2]。享年53[2]。跡を次男・光邦が継いだ。

Remove ads

系譜

『寛政重修諸家譜』の記載

光実は『寛政重修諸家譜』編纂時の当主である。『寛政譜』の記載は以下の通り[9]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は『寛政譜』の記載順。

補足

  • 『寛政譜』編纂時点では3男5女が記されている。正室本多氏所生とされているのが光弘・長女・次女・三女・四女(安部信操室)。五女(土方久敬婚約者)と唯之助が同母とされている[9]
  • 森川俊知正室(法号は仙寿院殿天誉皓月清光貞照大法尼)については、八重という実名が伝わっており、その実母の法名は桂雲院殿心月妙鏡大禅定尼である[10]

他の情報源を勘案した子女の一覧

  • 長男:分部光弘、生母は正室
  • 長女:千代、生母は小沢氏(側室)
  • 次女:梅 - 小出英筠継室
  • 次男:分部光邦
  • 三女:八重 - 森川俊知継室
  • 四女:岩 - 田沼意留継室
  • 五女:みえ
  • 六女:恵茂 - 長岡義之
  • 三男:唯之助、生母は側室
  • 四男:溝口勝匡 - 実匡とも
  • 五男:池田長溥 - 池田長喬の養子
  • 七女:糸
  • 八女:賀弥 - 高力某の養女
  • 九女:佐恵 - 久留某の養女
  • 十女:安部信操正室
Remove ads

備考

脚注

参考文献

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads