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分部光庸
江戸時代中期の大名。近江大溝藩7代藩主。分部家8代。従五位下・隼人正、若狭守。分部光命の長男 ウィキペディアから
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分部 光庸(わけべ みつつね)は、江戸時代中期の大名。近江国大溝藩7代藩主。分部家8代。官位は従五位下・隼人正、若狭守。
生涯
元文2年(1737年)11月29日[2]、6代藩主・分部光命の長男として[1][2]、大溝において誕生[1]。『寛政重修諸家譜』では享保19年(1734年)生まれと記している[1](官年参照)。
寛延3年(1750年)6月1日、徳川家重に御目見[1]。宝暦4年(1754年)9月7日、父・光命の隠居により跡を継ぎ[1]、同年12月18日に従五位下隼人正に叙任[1]。宝暦5年(1755年)4月15日、はじめて領国入りするための暇を与えられる[1]。現存する大溝陣屋の総門は、宝暦5年(1755年)に建設されたものである[3]。
女院使接待役、勅使接待役など公家の接待役などを務めた。
安永元年(1772年)5月22日、若狭守に遷る[1]。天明5年(1785年)3月10日、長男・光実に家督を譲って隠居[1]。隠居号として静好を称した[1]。
寛政2年(1790年)8月26日死去[2][1]、享年54[2]。『寛政重修諸家譜』では享年57とする[1]。赤坂種徳寺塔頭の松渓院に葬られた[1][注釈 1]
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系譜
特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[1]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。
脚注
参考文献
外部リンク
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