トップQs
タイムライン
チャット
視点

前田茂勝

安土桃山時代〜江戸時代前期の大名 ウィキペディアから

Remove ads

前田 茂勝(まえだ しげかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名丹波国亀山藩主、のち八上藩主。前田玄以の三男(次男とも)。

概要 凡例前田 茂勝, 時代 ...

生涯

天正10年(1582年)、前田玄以の3男(次男とも)として誕生した。

文禄4年(1595年)にキリシタンとなる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与して、東軍方の細川幽斎が守る丹後国田辺城を攻め、開城の使者も務めた。その後、関ヶ原の戦いは西軍の敗北で終わるが、父・玄以が持つ朝廷とのパイプなどを考慮されて、戦後、父の所領・丹波亀山藩は安堵された。

慶長7年(1602年)、父・玄以が死去したために家督を継ぎ、丹波八上に移封され八上藩主となった。次第にキリスト教と距離を置き、教会にも通わなくなったとされる[2]。藩政を省みずに放蕩に耽り、終には発狂したという。諫言する家臣・尾池清左衛門父子を始めとする多くの家臣を切腹させたため、慶長13年(1608年)6月16日、幕府から改易を申し渡され、出雲国松江藩主、堀尾忠晴に身柄を預けられた。改易後、自らのつまずきに気づくと、茂勝は司祭のもとを訪れ、自らの過ちを告白し、これまでの快楽とは縁を切り、堅実なキリシタンの婦人と暮らしたとされる[2]

元和7年(1621年)に40歳で死去。

Remove ads

参考文献

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads