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勧修寺経顕

鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿。坊城定資の次男。従一位・内大臣。勧修寺家初代 ウィキペディアから

勧修寺経顕
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勧修寺 経顕(かじゅうじ つねあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿藤原北家勧修寺流坊城家権中納言坊城定資の次男。官位従一位内大臣勧修寺家初代当主。

概要 凡例勧修寺経顕, 時代 ...

経歴

元徳元年(1329年)に蔵人頭に任じられ、翌元徳2年(1330年)には参議に任じられた。暦応3年(1340年)に権大納言となり、2年後の康永元年(1342年)に権大納言を辞しているが、「光厳院の寵臣」(『椿葉記』)と称されていたように光厳上皇の下で院伝奏・評定衆・武家執奏を長く務め、また妻が上皇の皇子乳母になるなど相応の地位が確保された。

正平一統の際に宮中の混乱を鎮め、失意の二条良基を叱咤して、妻の乳母子である後光厳天皇の擁立を画策した。応安3年(1370年)には従一位内大臣に任じられているが非難も多く[注釈 1]、翌年には辞職している。光厳・後光厳両天皇の信任が厚く、北朝方の重鎮として活躍した。

系譜

  • 父:坊城定資(1275-1330)
  • 母:四条隆氏の妹
  • 妻:不詳
    • 男子:勧修寺経方
    • 男子:勧修寺経重

脚注

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