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イエメン・アラブ共和国
北イエメン (1962-1990) ウィキペディアから
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イエメン・アラブ共和国(イエメン・アラブきょうわこく、アラビア語: الجُمْهُورِيَّة العَرَبِيَّة اليَمَنِيَّة, ラテン文字転写: al-Jumhūrīyah al-`Arabīyah al-Yamanīyah)、通称北イエメン(きたイエメン)は、1962年から1990年までの間現在のイエメン西部に存在した国家。首都はサナア。
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沿革
1918年に前身のイエメン王国がオスマン帝国から独立し、1958年にアラブ連合共和国との間でアラブ国家連合を構成するが、1961年にシリアが独立したことに伴いアラブ連合共和国が崩壊したため解消した。
1962年に王制が打倒され、汎アラブ主義を掲げた新政府が成立するが、サウジアラビアに亡命政府を樹立した王制派との間で1970年まで内戦(北イエメン内戦)が続いた。
アル=ハムディ政権以後
内戦が休戦すると、1967年から1974年まで大統領を務めたアブドゥル・ラーマン・アル・イリヤーニの政権を打倒した1974年から1977年まで続いたイブラーヒーム・アル=ハムディ率いる軍事政権は、インフラ整備、医療・教育産業の発展など、様々な改革を断行して北イエメンの経済成長と近代化を主導した[1]が、1977年10月11日、サウジアラビア政府が関与したと主張されている不可解な暗殺事件[2][3]で改革はとん挫した。その後、アフマド・ビン・フセイン・アル=ガシュミーが大統領に就任するも、1978年6月にガシュミーが暗殺され、同年7月17日、後任として若手陸軍将校のアリー・アブドッラー・サーレハ(当時の階級は中佐)が軍事評議会議長に就任[4]。以後、サーレハは長期政権を維持した。
1990年5月22日にイエメン人民民主共和国(南イエメン)と統合し、イエメン共和国となった。
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通称
通称の北イエメンは、1967年にイギリス領だったイエメン東部が独立し、その首都アデンがサナアのほぼ真南に位置したことから国号を南イエメン人民共和国としたことに由来する。
国章
- 1962年から1966年までの国章
- 1966年から1974年までの国章
- 1974年から1990年までの国章
外交・対外関係
日本との関係
1962年9月にイエメン王国で革命が勃発してアブドッラー・アッ=サッラール(サラール)将軍を首班とする革命政権イエメン・アラブ共和国が樹立されたが、日本は当初イエメン・アラブ共和国を承認しなかった。しかし、それから約半年の間で国際連合の調停が軌道に乗り始め、また当時の超大国であった米ソ両国を筆頭とする諸外国の多くが革命政権を承認したため、1963年5月10日、日本はイエメン・アラブ共和国を承認した[5]。
経済
南イエメン政府は平等、質の高い教育、そして腐敗の減少などを通じて十分な生活水準を安定して国民に還元することができていたが、資本主義体制の北イエメンではこれらのいずれも遂行する事はできずにいた。1970年代は内戦からの復興にあったが、それを通じて汚職や縁故主義が蔓延しており、対外援助がGDPのおよそ17%[6]であった。また、特にサーレハ政権以降は、財政赤字がGNIの30%に上るなど、深刻な財政状況[7]にいた。
脚注
関連項目
外部リンク
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