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北村四郎

日本の植物学者 ウィキペディアから

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北村 四郎(きたむら しろう、1906年9月22日 - 2002年3月21日)は、日本植物学者キク科植物研究の第一人者とされる[1]昭和天皇の植物学研究の相談役としても活躍し[2]、北村の葬儀の際には、天皇明仁皇后から白いキクの花が下賜された[3]京都大学名誉教授

概要 北村 四郎きたむら しろう, 生誕 ...

概要

1906年に生まれる。高等学校時代にはフランス文化に関心を深めた[4]京都帝国大学理学部の植物学教室に進学し、小泉源一助教授に師事した。卒業論文の題目は「アザミ属の研究」であった。次いでキク科植物の分類について研究した[5]。1945年(昭和20年)に京都大学教授に就任してからも、キク科植物分類の整理を続け、第二次世界大戦による中断を挟みながらも20年がかりでまとめた。その業績は京都大学紀要に掲載された[3]。戦時中には、有用植物の研究も行っていた[1]

また河口慧海らによるヒマラヤでの植物標本を基に、日本人で初めてヒマラヤの植物の研究に着手した[3]。そのほかに、自らアフガニスタンパキスタンに赴き、現地の植物についての研究を進めた[3]。 1955年(昭和30年)5月から10月にかけて、木原均が組織した京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊に参画。帰国後の1956年(昭和31年)4月23日、皇居で行われた探検隊植物班の合同進講に参加。「アフガニスタンの野生植物に就いて」と題した進講を行った[6]

1950年(昭和25年)ごろから20年以上かけて、京都大学所蔵の標本などを基に植物図鑑の編集を始め、村田源ほかと共に『原色日本植物図鑑』全5巻を刊行した。また地域環境保全に関する調査研究にも指導的役割を果たした。

教授職を定年退職してからも大学に顔を出し、80歳近くまで研究を続けていた[7]。その蔵書と植物標本は京都大学総合博物館に収蔵されている[8]

2002年(平成14年)3月21日に95歳で死去[3]

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略歴

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著書

  • 『菊』弘文堂、1940年。
  • 『菊』平凡社、1948年。
  • 『有用植物学』朝倉書店、1952年。
  • 『アフガニスタン植物誌』京都大学、1960年。
  • 『比叡山』京都新聞社、1961年。
  • 『菊(カラーブックス)』保育社、1964年。
  • 『滋賀県植物誌』保育社、1968年。
  • 『深泥池の自然と人』京都市文化観光局、1981年。
  • 『落葉』保育社〈北村四郎選集I〉、1982年。
  • 『本草の植物』保育社〈北村四郎選集II〉、1985年。
  • 『植物文化史』保育社〈北村四郎選集III〉、1987年。
  • 『花の研究史』保育社〈北村四郎選集IV〉、1990年。
  • 『植物の分布と分化』保育社〈北村四郎選集V〉、1993年。

共編著

  • 村田源共著『原色日本植物図鑑 草本編』 2巻、保育社、1961年。
  • 村田源ほか共著『原色日本植物図鑑 草本編』 3巻、保育社、1964年。
  • 岡本省吾共著『原色日本樹木図鑑』保育社、1959年。
  • 刈米達夫共著『薬用植物分類学』広川書店、1965年。
  • 吉田光邦ほか共著『日本の文様花鳥』淡交社、1968年。
  • 村田源共著『原色日本植物図鑑 木本編』 1-2巻、保育社、1971-79 エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明
  • 『新註校定国訳本草綱目』共校、春陽堂、1972年。
  • 『近衛予楽院花木真写』源豊宗と解説、淡交社、1973年。
  • 本田正次ほか共著『シーボルト「フローラ ヤポニカ」解説』講談社、1976年。
  • 『草木図説木部』編註、保育社、1977年。
  • 佐竹義輔ほか、共著『日本の野生植物 草本』 1-3巻、平凡社、1982年。
  • 『原色中国本草図鑑』審校、雄渾社、1982~1986 エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明
  • 『本草図譜総合解説』 1-4巻、監修、同朋舎、1986年。
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脚注

関連項目

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