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北条綱重
戦国武将。北条幻庵の次男。三代目武蔵小机城城主。 ウィキペディアから
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北条 綱重/北条 氏信(ほうじょう つなしげ/ほうじょう うじのぶ)は、戦国時代の武将[1]。北条幻庵(長綱)の次男。諱は氏信、輩行名は新三郎[1]。兄弟には北条長順、鶴松院(吉良氏朝室)がいる。子は北条氏隆、妻は西園寺公朝の娘[1]。3代目の武蔵小机城城主[1]。『喜連川文書』によると、北条氏康が和歌の添削を依頼するほど、和歌の造詣が深かったとされる[1]。
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生涯
生年は不明だが、北条幻庵(長綱)の次男として生まれる。
永禄3年(1560年)7月20日、兄の三郎が夭折したため、父・幻庵より家督を譲られ、永禄6年(1563年)に小机城主となる。
永禄11年(1568年)に甲相駿三国同盟を結んでいた武田信玄が駿河侵攻すると、北条氏は今川氏に助勢することになり、駿河に出兵した際に蒲原城[注釈 1]を預かった。
永禄12年(1569年)12月、武田勝頼を総大将、武田信豊[注釈 2]、山県昌景らを大将とした武田軍が蒲原城に襲来。北条軍では、綱重や弟の長順をはじめとする1000余で篭城するが、武田勝頼や武田信豊の猛攻で激戦となり、同日中に落城した。この時の戦いで綱重は真田幸隆・信綱親子率いる真田勢に討ち取られたという(真田文書)[1]、その他に、綱重の弟の長順を始めとして狩野新八郎、清水太郎左衛門、笠原為継、荒川長宗ら蒲原城の城将も悉く討死した。
(静岡県三島市の祐泉寺)
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脚注
参考文献
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