トップQs
タイムライン
チャット
視点

北花内大塚古墳

ウィキペディアから

北花内大塚古墳map
Remove ads

北花内大塚古墳(きたはなうちおおつかこふん)は、奈良県葛城市北花内にある古墳。形状は前方後円墳

概要 北花内大塚古墳, 所在地 ...
Thumb
飯豊天皇埴口丘陵 拝所

実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「埴口丘陵(はにぐちのおかのみささぎ)」として第17代履中天皇皇孫女の飯豊天皇(飯豊青皇女)に治定されている。

概要

奈良県西部の奈良盆地南西縁、葛城山麓の平野部に築造された古墳である[1]。現在は宮内庁治定の皇族陵として同庁の管理下にあるが、これまでに同庁による調査などが実施されている。

墳形は前方部が大きく発達した前方後円形で、前方部を南西方に向ける[2]。段築・造出の有無は不明[1]。墳丘表面では円筒埴輪(朝顔形埴輪含む)・形象埴輪(盾形埴輪)のほか、コウヤマキ製の笠形木製品が検出されている[1][2]。墳丘周囲には周濠(幅10-15メートル)が巡らされる[1]。埋葬施設および副葬品は明らかでない[1]

この北花内大塚古墳は、古墳時代後期初頭頃の築造と推定される[1]。葛城地方では室宮山古墳御所市室)に始まる首長墓系譜が御所地域から忍海地域に移る様相を示すが、その中で本古墳は忍海地域に移動後の屋敷山古墳・火振山古墳の後続首長墓に位置づけられる[1]。被葬者は明らかでないが、前述のように現在は宮内庁により第17代履中天皇皇孫女の飯豊天皇(飯豊青皇女)の陵に治定されている[3]

Remove ads

遺跡歴

墳丘

墳丘の規模は次の通り[1]

  • 墳丘長:90メートル
  • 後円部 直径:50メートル
  • 前方部 幅:70メートル

墳丘は近世に神社が遷座された際に大きく改変を受けている[4][1]

被葬者

Thumb
角刺神社(葛城市忍海)
忍海角刺宮(葛城忍海之高木角刺宮)伝承地。

北花内大塚古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第17代履中天皇皇孫女の飯豊天皇(飯豊青皇女:いいとよのあおのひめみこ)のに治定している[3][5][6]。飯豊青皇女の墓について『古事記』に記載はないが、『日本書紀顕宗天皇即位前紀では「葛城埴口丘陵」と見える[3]。『延喜式諸陵寮では遠墓の「埴口墓」として記載され、大和国葛下郡の所在で、兆域は東西1町・南北1町で、守戸3烟を毎年あてるとする[3]

飯豊青皇女(飯豊女王/飯豊郎女/飯豊王/青海皇女/青海郎女/忍海部女王/忍海郎女)は、清寧天皇(第22代)の崩御後に億計王(仁賢天皇)・弘計王(顕宗天皇)が皇位を譲り合ったため、忍海角刺宮(葛城忍海之高木角刺宮、伝承地は葛城市忍海の角刺神社)で政務をとったとされる人物である[7][8]。『日本書紀』では清寧天皇5年11月に崩御し、『本朝皇胤紹運録』では45歳であったとする[7]。飯豊青皇女が即位したかは明らかでないが、『日本書紀』では「飯豊青尊」として墓所も「陵」と記す(通常の皇族墓は「墓」)ことから、古くから歴代天皇に位置づける説が生じており、『扶桑略記』・『本朝皇胤紹運録』では「飯豊天皇」と記載されている[7][8]。本陵においても元治元年(1864年)に『日本書紀』に従って「陵」と定められており、これが現在まで踏襲されている[7]

日本書紀』に基づく関係系図
16 仁徳天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17 履中天皇18 反正天皇19 允恭天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市辺押磐皇子20 安康天皇21 雄略天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
飯豊青皇女
(飯豊天皇?)
億計王
(24 仁賢天皇)
弘計王
(23 顕宗天皇)
22 清寧天皇
Remove ads

脚注

参考文献

関連文献

関連項目

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads