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南堅夫
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南 堅夫(みなみ かたお、1849年(嘉永2年) - 1870年9月27日(明治3年9月3日))は、江戸時代末期(幕末)の徳島藩士。
生涯
1869年(明治2年)に阿部興人・益田武衛と共に外交御用となり上京。1870年(明治3年2月28日)に長州藩で起こった脱隊騒動の視察を命じられ、阿部・益田と共に徳大寺実則一行と蒸気船・戊辰丸(徳島藩船)に乗り、山口を視察、その後、徳島へ帰郷する。
同年4月に起こった庚午事変(いわゆる稲田騒動)で徳島県脇町(現在の美馬市)の稲田家襲撃に関与したことにより、同年9月3日に徳島市吉野本町の萬福寺にて切腹した[1]。これが日本法制史上、明治以後に行われた切腹刑の1つとされる(最後の切腹刑は、2年後の1872年[明治5年] 11月4日に金沢藩執政(藩臣最高職)本多政均の暗殺に対する加賀本多家旧臣の敵討ち[明治の忠臣蔵と言われている]により、石川県刑獄寮の裁判で切腹の判決が下され切腹した旧臣12人[本多弥一、富田総、鏑木勝喜知、吉見亥三郎、矢野策平、西村熊、舟喜鉄外、浅井弘五郎、廣田嘉三郎、湯口藤九郎、芝木喜内、藤江松三郎]である[2][3])。
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脚注
参考文献
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