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徳大寺実則

幕末から明治にかけての公卿、官僚 (1840–1919) ウィキペディアから

徳大寺実則
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德大寺 實則(とくだいじ さねつね、天保10年12月6日1840年1月10日〉 - 1919年大正8年〉6月4日)は、日本公卿政治家宮内卿内大臣明治天皇侍従長等を務めた。位階勲等爵位従一位大勲位公爵。新字体で徳大寺 実則と表記されることもある。

概要 生年月日, 出生地 ...
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徳大寺実則
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概要

尊皇攘夷派の公卿として活躍し、1862年(文久2年)、国事御用掛、翌年議奏となったが、1863年(文久3年)に起こった八月十八日の政変に関与し謹慎となった。王政復古の後、1868年(慶応4年)1月に明治政府の参与議定として内国事務総督を兼ね、2月には内国事務局督、1869年(明治2年)、内廷職知事、ついで大納言に至った。

1871年(明治3年)、宮内省に入り、侍従長宮内卿と兼任に至った。1891年(明治24年)、内大臣侍従長となり、明治天皇の側近として天皇が崩御するまで補佐した。明治天皇の政治関与には強く反対し、元田永孚らが侍補制度を定めて天皇親政運動を行った折にはその阻止に動いた。また、自らの政治的関与も強く戒めて侍従長在任中は政界に転じた実弟の西園寺公望とは公の場所以外では会話しなかったと言われている。

1919年(大正8年)6月4日流行性感冒スペインかぜ)のため千駄ヶ谷の自宅で薨去[1][2]。享年80。

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人物

  • 明治・大正・昭和の三代に亘って仕人(つこうど。宮中の諸雑務に携わる宮内省の下級職員)として勤務した小川金男は、侍従長退職後の実則について以下のように回想している[3]
重厚な滅多に口のきかない人物である。この人はいつも顔を伏せている。伏せたまま眼だけが気を配るようにあちこちと動く。歩く時はきわめて静かで猫のように足音さえもさせない。
(中略)この人が顔をあげて歩くのは邸内の庭を歩く時だけであった。一旦人中に出れば、自然に頭が下がって、眼だけをわずかに動かすのである。
恐らくこういう公爵の様子は、明治陛下の侍従長として長い間お勤めしている間に、陛下の行幸に御陪乗して、いつも陛下の御前に座り、黙って頭を伏せて、しかも四方に気を配っていなければならなかった生活からきたものであろう。それがすでにこの人の性格にまで根を下ろしていたのではあるまいか。

墓所

墓所は当初谷中霊園(どの区画にあったかは不明)にあったが、多磨霊園改葬されている。

なお東京都から官報無縁墳墓等改葬公告が出ており、2021年度現在はまだ現存しているが、無縁撤去となる可能性が高い。

子孫の徳大寺実啓は健在。実則次代公弘の子である実厚から京都の黒谷墓地を墓所としている。

官途

※1872年までの日付は旧暦

  • 嘉永元年(1848年)7月12日、従五位下に叙位。
  • 嘉永2年(1848年)1月5日、従五位上に昇叙。
  • 嘉永3年(1850年)2月3日、正五位下に昇叙。
  • 嘉永4年(1851年)3月22日、侍従に任官。7月28日、従四位下に昇叙、侍従は元の如し。12月4日、元服して禁色昇殿を聴される。
  • 嘉永5年(1852年)1月27日、従四位上に昇叙、侍従は元の如し。
  • 嘉永6年(1853年)5月8日、正四位下に昇叙、侍従は元の如し。
  • 嘉永7年(1854年)3月7日、右近衛権少将に転任。
  • 安政4年(1857年)2月8日、左近衛権中将に転任。12月19日、従三位に昇叙、左近衛権中将は元の如し。
  • 安政5年(1858年)3月24日、正三位に昇叙、左近衛権中将は元の如し。
  • 文久2年(1862年)4月25日、権中納言に転任。12月9日、朝廷国事御用掛を兼帯。12月24日、従二位に昇叙、権中納言と国事御用掛は元の如し。
  • 文久3年(1863年)4月17日、議奏を兼帯。8月24日、議奏を辞す。
  • 慶応3年(1867年)2月28日、正二位に昇叙、権中納言と国事御用掛は元の如し。12月9日、国事御用掛廃止。
  • 慶応4年(1868年)1月3日、明治政府参与を兼帯。1月9日、議定に異動。2月2日、権大納言に転任、議定は元の如し。1月20日、政府内国事務局督を兼帯。閏4月21日、官制改革により議政官の上局の議定(立法府の上院の議員)を兼帯、内国事務局督は元の如し。
  • 明治2年(1869年)7月8日、官制改革により大納言を拝命。4月、内廷職知事を兼帯。
  • 明治3年(1870年)2月、山口宣撫使を兼帯。
  • 明治4年(1871年)7月14日、大納言を辞し、麝香間祗候となる。8月4日、侍従長を拝命。9月15日、宮内卿を兼任。
  • 明治10年(1877年)8月29日、官制改革により侍従長を辞し、一等侍補を兼帯。11月22日、勲一等旭日大綬章
  • 明治11年(1878年)6月7日、一等侍補を辞す、宮内卿は元の如し(専任)。
  • 明治17年(1884年)3月21日、官制改革により旧制の侍従長が復活したことにともない侍従長に再任、宮内卿は辞す。7月7日、華族令により侯爵に叙爵。
  • 明治18年(1885年)7月、華族局長官を兼帯。
  • 明治23年(1890年)2月、貴族院侯爵議員[4]
  • 明治24年(1891年)2月21日、内大臣を拝命、侍従長は元の如し。
  • 明治32年(1899年)12月6日、従一位に昇叙[5]
  • 明治39年(1906年)4月1日、大勲位菊花大綬章[6]
  • 明治44年(1911年)4月21日、多年の勲功により公爵に陞爵[7]貴族院公爵議員[4]
  • 大正元年(1912年)8月13日、内大臣兼侍従長を退任。
  • 大正8年(1919年)6月4日、大勲位菊花章頸飾[8]、同日薨去満79歳没
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栄典

位階
爵位
勲章等
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外国勲章佩用允許
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家族・親族

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系譜

東山天皇男系七世子孫である。東山天皇の孫(閑院宮直仁親王の子)で鷹司家を継いだ鷹司輔平の男系後裔。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。

脚註

参考文献

関連文献

関連項目

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