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南林寺 (鹿児島市)
薩摩国鹿児島城下にあった寺院 ウィキペディアから
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南林寺(なんりんじ)は、薩摩国鹿児島城下松原通町(現在の鹿児島県鹿児島市南林寺町)にかつて存在した曹洞宗の寺院。山号は「松原山(しょうげんさん)」であった。
沿革

弘治3年(1557年)、島津氏15代当主であった島津貴久によって福昌寺の末寺として建立、貴久死後はその菩提寺となる。宝暦6年(1756年)10月の「松平又三郎家中分限帳」での寺社高400石。寺内に末寺の源舜庵などが併設されていた。
明治2年(1869年)の廃仏毀釈により堂宇は破却され、跡地(松原町)には島津貴久を祭神とする松原神社が建立された。境内は明治時代には遊興の地としてにぎわっていたという。
明治40年(1907年)、桐畑徳峻より永平寺の出張所として再興されたが[1]、1916年(大正5年)9月、寺号を取り消され廃寺となった。後継寺院として大中寺が創立された[2][3]。
残った墓地の方はそのまま市民墓地として供用されたが、大正8年(1919年)鹿児島市の市街地拡大により撤去され[4]、ほとんどの墓石は鹿児島市営の草牟田墓地、郡元墓地、露重墓地、興国寺墓地へ移転させられた。南林寺墓地には約13万5千基の墓があったが、墓地廃止後に無縁墳墓3500余が残った。このうち著名人の墓を「南林寺由緒墓」として残している。墓地廃止に伴い鹿児島市は無縁墳墓台帳を作成し庁内に保管し閲覧に供していたが、現在この台帳は廃棄したとしている。
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南林寺由緒墓
要約
視点
南洲寺の隣りに、南林寺墓地にあった名士の墓をまとめたものである。幕末の藩士や剣術家の墓が多い。なお1列目は南洲寺及び月照の墓から一番遠く、4列目は南洲寺及び月照の墓に近い側にある。[5]。
- 1列目
- 2列目
- 3列目
- 4列目
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備考
鹿児島市内にある「いづろ通り」は漢字では石灯籠と書き、かつて南林寺の石灯籠が立っていたことに由来する[8]。
脚注
参照文献
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