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南部甕男
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南部 甕男(なんぶ みかお、弘化2年6月15日(1845年7月19日) - 1923年(大正12年)9月19日)は、明治期の日本の司法官僚。正二位勲一等男爵。号は南陽。
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生涯
弘化2年(1845年)、土佐藩郷士・南部従吾(忠克、静斎)の長男として高岡郡大野見村久万秋(現在の中土佐町)に生まれる。父は佐藤一斎に学んだ陽明学者で、門人には武市瑞山、谷干城らがいた。
土佐勤王党に加盟し、文久2年(1862年)に脱藩して上洛。諸藩の志士と交わるなど勤皇活動に従事した。三条実美の衛士となり、八月十八日の政変では実美に従って長州藩へ亡命し、大宰府移住にも随行した。戊辰戦争では東山道先鋒総督の書記兼斥候を務めた。
維新後は、明治元年(1868年)12月の兵部少録任官を皮切りに、1875年(同8年)5月に7等判事、1876年(同9年)9月に熊本裁判所長、1880年(同13年)4月に神戸裁判所長、1881年(同14年)10月に司法権大書記官・民事局長、1891年(同24年)に大審院長心得(兼大審院部長)、東京控訴院長など、主に司法畑の要職を歴任した。同29年(1896年)6月5日に男爵に叙せられ[1]、同年10月に大審院長に就任する。1906年(同39年)7月に退官した後は枢密顧問官を務め、法曹会の設立にも尽力した。
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栄典
- 位階
- 1884年(明治17年)6月30日 - 従五位[2]
- 1890年(明治23年)11月4日 - 従三位[3]
- 1896年(明治29年)12月21日 - 正三位[4]
- 1904年(明治37年)2月10日 - 従二位[5]
- 勲章等
系譜・親族
南部家は南部光行の子孫と伝える。
甕男には3女があった。家督は長女幸子(さきこ)の婿である南部光臣(烏丸光徳三男、宮中顧問官・貴族院議員)が嗣いだ。次女瑞芽(みずめ)は志水美英(海軍主計大監)に嫁ぎ、三女敏子(としこ)は松平頼親(伯爵松平頼聰の六男)の夫人となった。
脚注
参考文献
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