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南部行信
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南部 行信(なんぶ ゆきのぶ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。陸奥国盛岡藩の第4代藩主。官位は従四位下・信濃守。
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経歴
寛永19年(1642年)8月17日、第3代藩主・南部重信の長男として盛岡にて誕生。寛文6年(1664年)4月28日に4代将軍・徳川家綱に御目見する。同年12月28日に従五位下、信濃守に叙位・任官する。元禄5年(1692年)6月27日、重信の隠居により51歳で家督を継ぐ。元禄7年(1694年)8月21日、弟・政信に新田5000石、弟・勝信に新田3000石を分け与え、各々旗本に列する。元禄12年(1699年)12月18日、従四位下に昇進する。
行信が藩主となった頃には、鹿角金山を始めとする盛岡藩内における産金の減少、元禄7年(1694年)の大凶作から元禄8年(1695年)の大飢饉と、連年のように凶作が続いて4万人の餓死者を出すなど、藩財政が著しく悪化した。このため、新田開発の奨励、倹約の徹底、検見制廃止による税制改革、軍馬飼育義務の免除など様々な財政改革を試みるが効果はなく、元禄15年(1702年)には2万6000人の餓死者を出すに至った。
このため、行信は次第に藩政に対する関心を失った。儒教に盲信の域まで傾倒し、早世した長男・実信の葬儀は仏式を廃して儒式で行い、江戸で落書のネタにされたという。このために儒臣が権勢を握り、代わって嗣子となった信恩を廃嫡しようとまでしている。
また武芸では砲術に長けており、数流派を合わせて心的妙化流を開き、5代将軍・徳川綱吉の前で披露したこともあったという。この他馬術でも行信流を開いた。
元禄15年(1702年)10月11日、父の後を追うように盛岡で死去した。享年61。跡を三男の信恩が継いだ。
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系譜
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