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盛岡市

岩手県の市 ウィキペディアから

盛岡市map
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盛岡市(もりおかし)は、岩手県北部に位置する。岩手県の県庁所在地及び最大の都市で、中核市保健所政令市に指定されている[1][2]1889年明治22年)市制施行。

概要 もりおかし 盛岡市, 国 ...
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概要

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盛岡市の岩山から市街地を展望

平安時代桓武天皇の命により志波城が置かれ律令制下となる。安土桃山時代に勢力を広げた南部氏盛岡城を築いて以後、城下町として発達。明治以後は岩手県の県庁所在地となった。

岩手県内最大の都市でもあり、岩手県の政治、経済、交通の中心都市、人口は約28万人であり、岩手県の経済・文化をリードするポジションにある。

地理

要約
視点
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盛岡市内から望む岩手山
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市内を流れる中津川

岩手県の内陸部、北上盆地のほぼ中央部に位置し、東京都中心部からの距離はおよそ500km、青森市からはおよそ150kmの位置にある。市内中心部で主流北上川雫石川中津川が合流する。中心市街地からは奥羽山脈に属する岩手山(北西)、駒ケ岳(西)北上高地に属する早池峰山(東)のほか、独立峰の姫神山(北)、南昌山東根山(南)などを望み、これらは市域の内外にありながら総じて街のランドマークとなっている。市域面積は東京23区の約1.4倍に相当し、豊かな自然環境に恵まれ美しい景観を形成している。

広袤(こうぼう)

概要 節内の全座標を示した地図 - OSM ...

国土地理院の全国都道府県市区町村別面積調によると、盛岡市の面積は886.47平方キロメートルである[3]

国土地理院によると盛岡市の東西南北それぞれの端は以下の位置[4][5]。東端は早坂峠の南南東約4.2キロメートル (km) 、西端は御所湖畔、南端は毛無森、北端は送仙山である。 [6]

盛岡市の広袤
  北端
北緯39度55分49秒 東経141度9分52.9秒
人口重心
北緯39度42分35.03秒 東経141度08分45.27秒
西端
北緯39度39分56秒 東経140度59分43秒
市役所
北緯39度42分7秒 東経141度9分15秒
東端
北緯39度48分45秒 東経141度31分39秒
 
南端
北緯39度33分50秒 東経141度25分11秒
 

人口

市勢
  • 人口 : 284,128人(令和5年5月1日現在・基本台帳人口)
  • 外国人登録人口 : 1,533人
  • 世帯 : 133,912世帯


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盛岡市と全国の年齢別人口分布(2005年) 盛岡市の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 盛岡市
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性
盛岡市(に相当する地域)の人口の推移
1970年(昭和45年) 226,868人
1975年(昭和50年) 251,280人
1980年(昭和55年) 272,814人
1985年(昭和60年) 287,312人
1990年(平成2年) 292,632人
1995年(平成7年) 300,723人
2000年(平成12年) 302,857人
2005年(平成17年) 300,746人
2010年(平成22年) 298,348人
2015年(平成27年) 297,631人
2020年(令和2年) 289,731人
総務省統計局 国勢調査より

平成27年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、0.24%減の297,631人であり、増減率は県下33市町村中4位。

隣接地

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気候

要約
視点

気象庁により、気象観測が行われている観測所は、以下の3か所である。

盛岡市中心部(盛岡地方気象台)の気候

寒暖の差が大きく気温の年較差、日較差が大きい顕著な大陸性気候である。降雪量が多く、豪雪地帯に指定されている。

都道府県庁所在地としては、最寒月の日平均気温が札幌市に次いで低く、平年値では真冬日が12.4日、冬日が121.6日となっている。

冬季の盛岡市中心部は、ヒートアイランド現象により、-10℃以下まで冷え込む日数が少なくなった。しかし、郊外では-15℃を下回る気温が観測されることが珍しくなく、盛岡市北部の好摩では1月の日平均気温が-2.6℃、平均最低気温は-7.4℃、盛岡市北東部の薮川では1月の日平均気温が-6.6℃、平均最低気温は-13.2℃、薮川では近年でも-25℃を下回る気温が観測され、2012年1月30日に-25.8℃、2018年2月22日に-25.4℃を観測しているなど、盛岡市中心部と郊外で気温差が大きくなっている。

夏季は、真夏日となる日もみられるものの[注 1]やませの影響を強く受ける[7]年があるほか、フェーン現象が発生することもあるため、年によって夏日が38〜100日、真夏日も1〜50日[注 2]と変動する。猛暑日になることもあるが、熱帯夜[8]となることは稀である。

盛岡市北東部(薮川)の気候

ケッペンの気候区分によると、盛岡市北東部の薮川は湿潤大陸性気候亜寒帯湿潤気候(Dfb)に属する。12月から3月にかけて日平均気温が氷点下となり、寒さが厳しい。降雪量が多く、豪雪地帯に指定されている。

盛岡市北東部の薮川は、盛岡市中心部よりも気温が低く、平年値では真夏日が1.1日、夏日が31.2日、真冬日が68.3日、冬日が183.3日となっている。

1月の平均最低気温は-13.2℃と、本州の観測所(富士山を除く)では最も低い平均最低気温となっている。

冬季は、近年でも-25℃を下回る気温が観測され、2012年1月30日に-25.8℃、2018年2月22日に-25.4℃を観測している。

さらに見る 盛岡市山王町(盛岡地方気象台、標高155m)の気候, 月 ...
さらに見る 盛岡(盛岡地方気象台・1961 - 1990年平均)の気候, 月 ...
さらに見る 好摩(1991 - 2020)の気候, 月 ...
さらに見る 藪川(1991 - 2020)の気候, 月 ...
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名称とシンボル

  • 「幾春も華の恵みの露やこれ 宝の珠の山」

「盛岡」の名は、1691年に、当時の藩主南部重信と、盛岡城鬼門鎮護の寺院として置かれた真言宗豊山派永福寺第42世・清珊法印との間で交わされた連歌に由来する瑞祥地名である。「盛り上がり栄える岡」の意味を持つとされ、のちに藩名も「南部」から「盛岡」へと改められた。版籍奉還直後は一時「盛岡県」が存在したが、盛岡城の存在した旧郡の名にちなみ岩手県へ改められたと言われている(諸説あり)。現代では一般的呼称ではないが、中世には「盛府」とも記された。

盛岡市中心部は、かつての「巖手郡仁王郷不来方」に相当し、不来方(こずかた)または「古志方(こじかた)」と呼ばれていたと考えられている。盛岡はこれに代わる「美名」として名付けられたが、今日ではむしろ「不来方」が雅称として用いられる傾向にある。また、「杜陵」「杜稜」と書いて「もりおか」あるいは「とりょう」と読み[13]、雅号とすることもある。盛岡市出身の石川啄木は、その作品の中で「美しい追憶の都」、盛岡市ゆかりの宮沢賢治エスペラント語風に「モリーオ市」と記した。「みちのく小京都」とも称される。また、冷麺じゃじゃ麺わんこそばと全国的に知られる特徴的な麵料理が発達したことから、盛岡市自身が「めん都」と自称する[14]

「盛岡」を連想させるものとして、市内のあらゆる地域から望まれる岩手山が多くの学校の校歌に謳われるほか、市の中心部で合流する中津川北上川雫石川の三大河川、国の史跡に指定されている盛岡城石垣、国の天然記念物に指定されている石割桜、国の重要美術品の上ノ橋擬宝珠、旧盛岡藩主南部氏の家紋「向鶴(双鶴)」「武田菱」が、盛岡を表す端的なモチーフとして用いられることが多い。

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歴史

要約
視点

平安時代の延暦年間、征夷大将軍坂上田村麻呂により志波城が築かれた。続いて豪族安倍氏により「厨川柵嫗戸柵」が置かれて事実上の自治を果たすが、安倍氏が源氏からの侵攻を受けると、代わって出羽国から清原氏が進出した(前九年の役)。清原氏が内紛で滅亡すると(後三年の役)、現在の盛岡市(当時の岩手郡・斯波郡)は平泉を拠点とする藤原清衡ら(奥州藤原氏)の勢力圏となる。平泉源頼朝に攻略され再び源氏が統治すると(鎌倉幕府の成立)、「厨川城」を拠点に御家人「奥州工藤氏」が治め、のちに岩手郡は北条氏・斯波郡は足利氏の影響下に置かれる。南北朝時代には両統が割拠する中、甲斐源氏を祖とする南部氏が三戸からの南進を果たす。工藤氏らを配下として岩手郡を領有、南部氏家臣福士氏が「不来方城(慶善館・淡路館)」を置く。南部氏斯波氏を滅ぼし「斯波郡(紫波郡)」を領有すると不来方城を礎に盛岡城を築き、城下町を整備。これが盛岡の現代に至る始まりである。盛岡藩(旧南部藩)は盛岡県を経て岩手県となり、盛岡市はその県庁所在地となる。紫波・岩手両郡の中核となり、古代以来の統治拠点「志波城」「厨川城」「盛岡城」を包含する地域として、現在の盛岡市が形成される。

2023年、ニューヨーク・タイムズの『2023年に行くべき52カ所』に選ばれた[15]

旧石器時代 - 縄文時代

「小石川遺跡」における旧石器時代の遺構からは、既に13000年前から当地域に人の営みがあったことが認められる。

岩手県指定史跡「大館町遺跡」からは、約500に及ぶ縄文時代の竪穴建物跡と、多量の土器が発見され、近隣の「大新町遺跡」における爪形文土器他の出土品と共に、東北地方における土器の変遷が垣間見られる。また、「翡翠」など地場では採掘されない鉱石の出土例があり、古くから広い地域での交易が実現されていたと推測される。冷温帯落葉樹林に覆われたこの地域は現代より温暖で、もっぱら山野の収穫と狩猟・漁労を生活の基礎とする豊かな自然環境に恵まれた。そのため縄文文化の影響を色濃く残し、弥生文化を基軸とする西日本からは独立した文化的背景を持つ。盛岡市では、縄文土器が発掘されている一方、弥生土器の発掘例はほとんどない。また古墳文化続縄文文化の境界上にあって、両文化の交わる点にあった。

弥生時代 - 奈良時代

南の「大木式土器圏」と北の「円筒式土器圏」の緩衝地域にもあたり、以後も当地は長らく南北文化の境界であった。独自の信仰・呪術形態を物語る手代森遺跡出土物遮光器式土偶のほか、アイヌ語の影響と見られる地名が今なお残されているのが特徴である。気候と植生の違いにより、元来熱帯起源の稲作には不適地であったが、ヤマト王権の拡大政策による稲作の推進に伴い、米を基幹作物とする中央集権型の経済体制下に組み込まれてゆく。このことは、耐寒性品種の開発をみる近代まで、結果として当地に経済的立ち遅れを招く要因ともなった。ヤマト王権の東北地方における勢力拠点となった仙台平野に比して、北上盆地にはその影響が弱く、盛岡周辺では地元小豪族が半ば独立した自治を行っていたと見られる。市内では開墾などによって「古墳」が失われているが、石室・土師器須恵器や鉄製馬具が出土しており、有力な支配者層は、陵墓をもってその権威を示したと見られる。「高櫓A遺跡」から「土製紡錘車」が発見されるなど、当時の人々の暮らしを物語る奈良時代の遺構も発掘されているが、未だ解明されていないところが多い。

平安時代

平安時代の盛岡は、当時の律令支配から独立した土豪勢力がおり、蝦夷と呼ばれ、ヤマト政権から異民族蔑視されていた。「上田蝦夷森古墳群」などがその遺跡で、出土品である「衝角付冑」や、全国でも岩手県での出土が最も多い「蕨手刀」からは、古くから一帯に高い製鉄文化を持った人々が暮らしていたことが推測され、また錫製品・琥珀の出土により、当時から交易ルートが存在したと見られている。また「太田蝦夷森古墳群」からは「勾玉」「ガラス玉」ほか、ヤマト政権との関わりを示す「和同開珎」などが出土しており、志波城造営との関わりを示唆している。

平安京造営と並ぶ桓武天皇の陸奥進攻政策により、延暦21年(802年)、アテルイへ連行されると、翌年の延暦22年(803年)、征夷大将軍で「造志波城使」の坂上田村麻呂が「志波城」(現在の「志波城古代公園」、盛岡市中太田方八丁附近)を造営した。これは陸奥国最北の城柵であったが、河川の氾濫により10年で徳丹城へ移転した。一帯は律令体制下に置かれ、上総千葉県)などの文字のある出土物から、他国からの移民兵士などによる集落が形成されていたと見られる。のちに朝廷の財政難による拡大政策の停止により、10世紀には、蝦夷の俘囚長を名乗った安倍氏が地場支配を続けていた。居館を嫗戸柵(現在の盛岡市安倍館町に擬定)に構え、厨川柵(現在の盛岡市天昌寺町附近に擬定)などの拠点も造営した。

安倍頼時安倍貞任父子は、北上川流域の奥六郡を統治していたが、後に奥州進出を図る陸奥守源頼義の謀略により、戦闘状態に陥る。(前九年の役)当初安倍氏が有利な戦闘状況であったが、頼義の説得で出羽の俘囚長出羽清原氏が頼義に味方すると戦況は一転し、厨川次郎とも呼ばれた貞任と子の千代童子は、厨川で戦死した。また、貞任の弟である安倍宗任は、伊予国、九州大宰府などに配流、後に松浦党を構成する一族の始祖となったと伝える。さらにこの時、安倍氏に加勢した在庁官人藤原経清も処刑され、その妻は経清との間に生まれた清衡を連れ清原武貞に嫁せられる。以後、陸奥・出羽の両国は清原武則とその子武貞の支配下に置かれた。「陸奥話記」は、このころ不来方(逆志方)は清原武則の甥「橘頼為」が領主になったと伝える。源頼義の子で前九年の役にも従軍した源義家が陸奥守として赴任して来て、清原武貞の死後の清原氏跡目相続の内紛に介入し、後三年の役が起きる。義家は合戦に勝利したものの、私戦と認定される。現在の盛岡市域は、清原氏を名乗るも実父藤原氏の血統にあり、安倍氏出身の実母を持つ清原清衡(のちの藤原清衡)が統べることとなり実父の姓藤原に復す。平泉奥州藤原氏である。この統治は以後、平氏政権の下で約100年間続く。

鎌倉時代

奥州藤原氏は産金と北方貿易による巨万の富を背景に、平泉を中心とした独自の政権を打ち立て、浄土思想を基調とする仏教文化が花開いた。平氏政権を倒し、独自の武家政権の確立を目指す源頼朝および鎌倉幕府は、源義経を庇護したことを口実に藤原泰衡を追捕の対象とした。頼朝は全国の武士を動員し、阿津賀志山の戦いで藤原氏を破った。この時、頼朝は「高水寺」に詣で伊豆国走湯権現を勧請したと吾妻鏡は伝える。

源頼義から数えて5代目の後裔となる源頼朝は、文治5年(1189年)9月11日、厨川に到着し「厨川館」を定める。前九年の役における父祖の故事にならい、頼義が厨川で安倍氏に行なったのと同様、藤原泰衡の首級を晒す事で奥州の統治権を宣言する。この戦いを奥州合戦と呼ぶ。その勲功として、現在の盛岡は頼朝に従った御家人で伊豆国(神奈川県)地頭の工藤氏が岩手郡を与えられ統治を始めた。工藤小次郎行光(奥州工藤氏)は前九年合戦の古戦場跡に「厨川館」を定め、安倍氏の祈祷所を基に「天台宗天照寺」(現・曹洞宗巌鷲山天昌寺)を創建、聖俗ともに岩手郡を統治する立場として巌鷲山大権現大宮司となり代々世襲、「岩手殿」とも呼ばれた。のち、岩手郡一帯は「北条得宗家」の、斯波郡は「足利宗家」の大きな影響の下に置かれた。

このころは「台太郎遺跡」から大陸産の北宋銭や青磁器常滑焼が出土していることから、現在の盛岡南新都市にあたる地域周辺に、奥州藤原氏の流れを汲む有力な支配者層が居館を構えていたことが推測され、大荘厳寺も高水寺同様、後に南部氏の宗教政策によって盛岡へ移転した。後の盛岡藩主となる南部氏の伝承によると、始祖南部光行公は、1180年、石橋山の戦いの功によって頼朝から奥州糠部郷を拝領していたと伝えられる。甲斐源氏の流れを汲む南部氏は、甲斐国巨摩郡南部郷から奥州への進出を果たした。

室町時代

南北朝動乱期、現在の盛岡周辺では有力氏族が割拠し、北朝の斯波氏・稗貫氏に対し南朝の北畠氏浪岡氏)・葛西氏南部氏が対立する。建武元年(1334年)、後醍醐天皇の命により北畠顕家が国府多賀城に赴任。これに従って甲州から奥州へ進出したのが南部師行根城南部氏、のちの遠野南部氏の祖)であった。建武2年(1335年)、中先代の乱の後、足利尊氏陸奥国府と南部氏を制するため、独自に奥州総大将として斯波家長を下向させた。これが「奥州斯波氏」である。将軍家と同格のため、奥州では「奥州惣奉行」葛西氏と並ぶ一族であった。三戸南部氏(のちの盛岡南部氏)はこのころ、対立していた厨川工藤氏(元の奥州工藤氏)が領有してきた岩手郡三十三郷を取り込んでいた。「岩手郡における南部氏」、「紫波郡における斯波氏」の台頭はここに始まり、そのまま南朝対北朝の構図となって、以後16世紀までその対立は続く。この斯波氏とは、北条氏の血を引く足利宗家の足利家氏が斯波郡(紫波郡)を領有したことに発する一族で、当地で前九年の役を戦った源義家の末裔に当たる。

岩手郡では、正平元年(1346年)、南朝の陸奥介鎮守府将軍の北畠顕信が滴石庄に進出、北畠少弐が居館「滴石御所」を営んだと伝えられ、現在の「御所湖」に名を残す。北朝の斯波氏は後に戸澤氏を退け、滴石においても優勢に傾き、分家を同様に「滴石(雫石)御所」と称した。斯波郡(紫波郡)では、高水寺斯波氏が、高水寺城(現在の城山公園)を拠点に中央からは「奥の斯波殿」、奥州でも「斯波御所」の尊称で呼ばれ、また、その分家も「猪去御所」など「御所」の尊称で呼ばれた。

安土桃山時代

浅野長政蒲生氏郷の推挙により、領地のほぼ中央部に位置する岩手郡仁王郷不来方を新たな本拠に決定する。

南部氏は「福士氏」を目代とし、不来方(現在の盛岡)を支配する。福士伊勢入道慶善淡路と糠部彦次郎は不来方城(慶善館・淡路館)を築き、これは後の盛岡城の土台となった。南部氏は、奥州斯波氏の本拠地であった日詰高水寺城を「郡山城」へ改めて居を構え、信直、利直、重直の三代にわたり「不来方城」の旧地に盛岡城を築く。

1588年、南部氏は現在の盛岡市の元となる岩手郡と斯波郡(紫波郡)を完全に支配下に置く。大浦為信津軽氏の祖)は、小田原征伐に際して羽柴秀吉に謁見し、津軽3郡3万石の安堵状を得る。これにより南部氏は、津軽地方を失う。これ以後、南部藩と津軽藩の精神的対立は領民の間ですら深刻なものとなり、現代に到るまで重大な禍根を残すこととなる。天正20年(1592年)、鎌倉時代以来400年間の統治拠点「厨川城」が廃され、不来方城(後の盛岡城)を中心とした城下町建設が始動した。これが「都市としての盛岡」の発祥である。以後、工藤氏は「栗谷川氏」を名乗り、福士氏をはじめ周囲の有力武門斯波氏葛西氏とも縁戚関係を組みながら南部家家臣となった。「盛岡開府」以後の三戸南部氏は「盛岡南部氏」と呼ばれ、後世には八戸の「根城南部氏」(「波木井南部氏」とも称する)を配下に収めて遠野へ移封(後の「遠野南部氏」)、中世的同族連合であった南部氏を脱却し、南部家一党の宗家として大名となった。慶長4年(1599年)、「盛岡城」が一応の体裁を整え藩主入部を見たこの年、南部藩の命により、鉱山師「鎌津田甚六」が鹿妻に堰の掘削を行い大規模水路が完成。藩御用の用水として新田開発を進められる。この結果、盛岡南部・紫波郡での良質な米穀生産が可能となり、生産された米はことごとく御蔵米となった。盛岡の繁栄は、この城下近郊での安定生産と農業技術向上によるものが大きい。この水路管理は明治に至り「鹿妻穴堰普通水利組合」(現在の「鹿妻穴堰土地改良区」)に受け継がれ、平成元年に国営盛岡南部水利事業の指定を受けて今日に至る。このころ既に南部領には、盛岡領内の豊富な砂金を目当てに現在の滋賀県高島市をはじめとする地域から近江商人が進出し、日詰郡山駅を拠点として城下町盛岡進出への足がかりとしていた。

江戸時代

明治維新以降

戊辰戦争で藩政が幕府側に与したことから、今の盛岡市域は政府直轄地となり、岩手郡松代藩紫波郡松本藩の取締を受けるなど、薩長側に与した旧藩に支配された。この動乱の中、秩禄を失った武家の間では、新天地を求める必然から、北海道開拓へ旅立つものも少なくなかった。この年、五稜郭箱館戦争が終結。

盛岡への鉄道敷設まで、主な物流は盛岡から石巻に到る定期船を「北上回漕会社」が担い、藩政以来の「舟運」を近江商人を中心とする財閥が継承していた。この一派は北上派と呼ばれ、経済・文化ともに盛岡の一大主流を成す商業集団となった。しかし、鉄道敷設による北上川舟運の衰退は、盛岡の経済界へ多大な影響を及ぼし、「鉄道・電気」といった新たな時代の要請に応え、花巻温泉・花巻電鉄の整備ほかインフラを束ねた「金田一家」の台頭を見た。このころ、江戸時代から紫根染を商ってきた豪商「糸屋(糸治)中村家」の中村治兵衛は、北上回漕会社・盛岡銀行・盛岡電気の役員を務め、盛岡工業高校の設立にも寄与した。明治24年(1891年) 小岩井農場小岩井農牧)の設立がその一例で、創業者に日本鉄道の小野義真鉄道庁長官の井上勝が名を連ねている。また三菱財閥創業家の岩崎弥之助が参画しており、農場名は彼らの頭文字を取って附された。この開業は、井上の鉄道敷設への深い思いがあると伝えられている。

  • 明治27年(1894年)、小野組をルーツとし岩手県の為替方を担っていた「第一国立銀行盛岡支店」が閉鎖。

第九十国立銀行は経営不振に陥っており、洋物商「永卯」の佐々木卯太郎が頭取として再建に乗り出すも、渋沢栄一は、自らが設立に関与した仙台の「第七十七国立銀行(現七十七銀行)」を斡旋して盛岡支店を開き、岩手県公金取扱業務を同行へ譲渡させた。

戦後

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盛岡さんさ踊り
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岩手公園(国の史跡・盛岡城跡)
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ギャラリー

行政

要約
視点
  • 盛岡市長 内舘茂(うちだて しげる 第20代 当選1回)。
    • 副市長 中村一郎(なかむら いちろう)
    • 副市長 小原由香(おばら ゆか)
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盛岡市章は、城下町盛岡を開いた南部氏の紋章「菱」を交差させたものに由来。「違菱(たがいびし)」と呼ばれる。一説には、後に南部氏の表紋となる「向鶴(むかいづる)」の鶴、折鶴を表現しているともいう。

ナンバープレート

盛岡市はこれまで「岩手」ナンバー(岩手運輸支局)が割り当てられていた。

岩手ナンバー割り当て地域( - 2014年11月16日)
  • 岩手県内全域
盛岡ナンバー割り当て地域(2014年11月17日 - )

予算規模

行政区域の変遷

  • 1889年(明治22年)4月1日 - 市制施行により、南岩手郡仁王村・志家村・東中野村の一部[注 3]・新庄村の一部[注 4]・加賀野村の一部[注 5]・山岸村の一部[注 6]・三ツ割村の一部[注 7]・上田村の一部[注 8]・仙北町村の一部[注 9]の区域を以て盛岡市が成立。
  • 1913年(大正2年)6月10日 - 岩手郡厨川村大字下厨川の一部を編入する。
  • 1928年(昭和3年)4月1日 - 岩手郡米内村を編入する。
  • 1940年(昭和15年)1月1日 - 厨川村を編入する。
  • 1941年(昭和16年)4月10日 - 岩手郡浅岸村中野村本宮村を編入する。
  • 1955年(昭和30年)
  • 1961年(昭和36年)2月1日 - 盛岡市の一部が岩手郡玉山村へ編入される。
  • 1992年(平成4年)4月1日 - 紫波郡都南村を編入する。
  • 2006年(平成18年)1月10日 - 玉山村を編入する。

行政課題

財政再建
都市基盤の整備
耐震性に問題のある市庁舎の問題に加えて、火葬場や下水道改修問題(合流式下水道問題)など、高度経済成長期に整備した社会資本を更新する必要に迫られている。
渋滞問題
盛岡は、市街地は小さく狭い市街地の至るところ中心部にまで道幅狭い細路地があり、交通渋滞が慢性化している。市は、マイカー利用を抑える対策としてバス利用の促進を図る。

不祥事

滞納太郎事件
2020年4月26日、新型コロナウイルスで固定資産税などの納付猶予の相談を受けた市役所納税課の職員が、記載事例に「滞納太郎」と記載した申請書を相談した複数の事業者に送付。事業者から抗議を受け、納税課長が謝罪した[17]
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対外関係

姉妹都市・提携都市

海外

姉妹都市
提携都市

国内

友好都市
  • 沖縄県の旗うるま市沖縄県)2012年7月31日提携
    • 平成19年4月から9月までに放送された、盛岡市を舞台にしたNHK連続テレビ小説「どんど晴れ」のヒロイン比嘉愛未の出身地がきっかけ[19]
    • 2022年(令和4年)7月31日、友好都市提携から10年を記念してJR盛岡駅前滝の広場で記念碑(友好都市提携記念碑)の除幕式が行われた[20]
  • 東京都の旗文京区東京都)2019年2月20日提携

議会

盛岡市議会

岩手県議会

  • 選挙区:盛岡市選挙区
  • 定数:10名
  • 任期:2019年10月2日 - 2023年10月1日
さらに見る 議員名, 会派名 ...

衆議院

  • 選挙区:岩手1区(盛岡市、紫波郡
  • 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
  • 投票日:2021年10月31日
  • 当日有権者数:293,290人
  • 投票率:58.81%
さらに見る 当落, 候補者名 ...

経済

要約
視点
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南部鉄器

伝統産業

業務・流通

地域別の平均所得ランキングでは、当市は1人当たりの所得が332万円である[22]。また、年間商品販売額は約1兆3559億円(2004年)である。高度経済成長期には、仙台市広域中心都市として、盛岡市は岩手県域中心都市としての地位を確立した。高度経済成長後は、東北新幹線開業(1982年)、東北自動車道全通(1987年)、八戸自動車道接続(1989年)など、1980年代に高速交通インフラが一気に整備された。秋田新幹線開通や東北新幹線新青森駅延伸など高速交通インフラが更に拡充された。

商業地

近年、地方部の中心市街地における商店街は、モータリゼーションの進展により郊外型のロードサイド大規模小売店舗に代わる傾向が見られ[23]、中心市街地の路線価が下がりつづけており、北東北最大の繁華街といわれる中心部(大通・菜園地区)でもピーク時1992年の3分の1以下まで下落した。中心商店街は小売店の入れ替わりが激しい。物販の郊外化と中心部の賃料の低廉化から、中心部における物販の衰退が一層進んでいる。

消費動向

総務省家計費調査によると、世帯あたりの豆腐の消費量が全国の県庁所在都市で第一位[24]。物販の郊外化および流通の寡占化によって商品の多様性は以前と比べて低下しており、ファッション関連品目などの高級品を中心に多様性の維持・拡充が続く仙台市東京への流出が顕著である。

小売店

主な百貨店、商業施設

  • フェザン(盛岡駅ビル)
  • 川徳(百貨店:パルクアベニューカワトク、郊外型複合店舗:アネックスカワトク) - 県内唯一の日本百貨店協会加盟店
  • サンビル(岩手産業会館ビル)
  • MOSSビル
  • クロステラス盛岡
  • 盛岡南ショッピングセンター サンサ(核店舗:ユニバース盛岡南店)
  • ショッピングコートみたけ(核店舗:マルイチみたけ店)
  • マイヤグランタウン(核店舗:マイヤ仙北店)
  • B.H.Aoyama Town(核店舗:ビッグハウス青山店)
  • アスライフ(核店舗:ユニバース青山店)
  • アクロスプラザ盛南(核店舗:ジョイス盛岡西バイパス店)

スーパーマーケット

その他
  • たもり 乙部店
  • 大善ストア 東仙北店
  • スーパーかわてつ(川鉄商店)
  • じゃんまる 津志田店
  • 好摩ショッピングプラザたますえ

家電量販店

ホームセンター

書籍・CD・DVD・文具

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盛岡市に拠点を置く主要企業

本社を置く企業
出先を盛岡市に置く企業
シスメックス
盛岡に工場・事業所のある企業
盛岡市の金融機関
本店・本所を置くもの
支店・支所・有人出張所を置くもの
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郵便

一般信書便事業者
  • 日本郵便
    • 盛岡中央郵便局(〒020-8799 集配局。盛岡市内は〒020-00xx・020-02xx・020-03xx・020-08xx地域を管轄)
    • 盛岡北郵便局(〒020-0199 集配局。〒020-01xx・020-06xx・020-07xx地域を管轄[注 21]滝沢市全域を含む)。
    • 乙部郵便局(〒020-0499 集配局。〒020-04xx地域を管轄)
    • 好摩郵便局(〒028-4199 集配局。玉山区の一部→〒028-41xx地域を管轄)
    • 藪川郵便局(〒028-2799 集配局。玉山区藪川地区→〒028-27xx地域を管轄)

国の機関

裁判所

国の所管法人

独立行政法人

国立研究開発法人

地域

要約
視点
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上空からの盛岡市

市内の各地域の特徴・町並み

昭文社発行の「都市地図シリーズ(1枚シートタイプ)」では盛岡市+紫波町・矢巾町・滝沢村を収録したタイプが「岩手県1」として発行されており、バリアフリー設備付き主要施設が書かれた「バリアフリー情報付き盛岡市中心部詳細マップ」付属(盛岡都心循環バス「でんでんむし」情報も掲載)。なおこのシリーズに雫石町と玉山区中心部(渋民・好摩地区)拡大図は非掲載である(「県別マップル3 岩手県道路地図」にも玉山区中心部と雫石町中心部の拡大図は非掲載。なお雫石町中心部&紫波町中心部拡大図は「スーパーマップル東北道路地図」に掲載されているが、玉山区中心部拡大図は非掲載)。

またゼンリン発行の盛岡市住宅地図は「盛岡市北部&滝沢村版」・「同・南部版」・「同・玉山区版」の3種類が発行されている。

中心部

中津川の北にあるため藩政時代より「河北」とも呼ばれるこの地域は、かつて「仁王郷」(南岩手郡仁王村)と称した。現在も当地では中津川、北上川、雫石川の三大河川が交差するが、安土桃山時代までは湿地帯で河川の氾濫が見られた。後にそれを自然の要塞とし盛岡築城が進められ、現在の盛岡市要部となった。幕末まで藩の重臣屋敷が立ち並んだ盛岡城内丸跡には、明治になって、県庁など官公庁施設や金融機関、マスコミ、医療機関などが集中する。慶長年間の盛岡開府に際しては、南部氏の旧城下町三戸から住人の移転が図られ「三戸町」が開かれたほか、京都からの移住した豪商の街「京町(本町)」、商人・職人町として「花屋町」、「材木町」などがある。大通・菜園地区は、城内の食膳に野菜を供するための「盛岡城御菜園」の名が住居表示に採用されたもので、近代には菜園競馬場、盛岡青果市場、盛岡農学校が置かれた。

東部

「河南」と呼ばれるこの地域は、かつては「中野郷」とも呼ばれた。「中ノ橋」たもとに藩の「高札場」が置かれ、近世に到っても「小野組」「盛岡銀行」「盛岡貯蓄銀行」「第九十国立銀行」「岩手銀行」が置かれ、商業街として発達した。八幡町(盛岡八幡宮の門前町)、江戸時代には舟運による物流拠点「新山河岸(現・明治橋際)」と最寄の「新穀町惣門」などを中心に賑わう。

北部

藩政時代に「上田通」に属したこの地域には、岩手県立博物館、盛岡市立図書館、岩手大学が連なる。かつては盛岡藩の宗教政策により、領内の重要寺院が集められ、北山寺院群が形発生。盛岡ドミニカン修道院、日本ハリストス正教会盛岡教会などの歴史あるキリスト教会も点在(上田・高松・山岸)する。奥州街道の面影を残す「一里塚」跡や、三陸海岸から城下へ塩を運ぶ「塩の道」と呼ばれる野田街道がある。

かつては競馬場があり、閑院宮載仁親王は、近隣の黄金清水に因んで「黄金競馬場」と命名。移転した現在の「盛岡競馬場」は、これに因んで「ORO PARK(黄金の公園)」を愛称とする。

西部

藩政時代に「厨川通」、近代には厨川村に属したこの地域は、平安時代に安倍氏、鎌倉時代に奥州工藤氏が拠点とした地域で、安倍館遺跡、里館遺跡、大館町遺跡、大新町遺跡などが幅広く存在する。厨川柵及び嫗戸柵の擬定地ともなっている。

盛岡駅の開通により、従来の舟運に替わって交流拠点となり、市街地と駅とを結ぶ開運橋が設けられた。

昭和初期まで「観武ヶ原練兵場」が知られ、陸軍予備士官学校が置かれたほか、近代化遺産として注目を集める煉瓦造の「覆馬場」など、往時の建造物が多く残されていたが、平成に入って急速に失われている。

戦後は「観武ヶ原開拓農協」が置かれ農地開拓が進んだが、1970年にみちのく国体が開催された際、「岩手県営運動公園」が整備され、碁盤目状の住宅街が形成された。

南部

藩政時代に「飯岡通」「向中野通」に属したこの地域は、盛岡開府に先立って開削された「鹿妻穴堰」の水利によって穀倉地帯として知られた。

平安時代には、坂上田村麻呂によって志波城大宮神社などが開かれた地域で、台太郎遺跡に代表される竪穴建物などの埋蔵文化財が多い。

「仙北町」は、江戸時代に秋田仙北地方から移住した人々によって生まれた町で、肥沃な土地を背景に「青物・種苗」を扱い、豪商が軒を連ねた。本宮地区には「平民宰相」で知られる「原敬」の生家がある。

玉山区

旧玉山村との合併に伴う地域自治区として、盛岡市の北部一帯に特例として「玉山区」が設定されていた(市町村の合併の特例等に関する法律第五条の五第1項を適用した「合併関係市町村の区域による地域自治区」、同法第五条の八の定める合併特例区ではない。設置期間は、2006年1月10日から2016年3月31日までの10年間[26])。石川啄木の生地「旧渋民村」を含む。巻堀神社の所在地としても知られる。

土地利用

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盛岡駅前・北上川にかかる開運橋

城下町開府以来の区画が残されている。中心部は狭く道路も狭いので、交通渋滞が起こりやすい区画となっており、現在の市域の可住地に比して山林など宅地開発に不向きな地域の比率が高い。市街地東端に位置する河川である中津川の上流地区は山林が占める農村地域である。多くの都市を中心に開発が進むのと対照的に、盛岡市は盛岡城を中心に西へ中心市街地の範囲を広げていった。現在の中心市街地は、中津川・北上川・雫石川を跨ぐ盛岡バスセンター周辺 - 内丸・大通・菜園 - 盛岡駅周辺である。

  • 下水道普及率 83.4%(2007年度)[27]

市外局番

盛岡市の電話番号市外局番)は市内全域「019」である。かつては「0196」だったが、固定電話加入世帯の増加により番号不足が生じる恐れが出たため、桁ずらし(市外局番の末尾「6」を市内局番の最初に移す形)により旧「0196」地域(盛岡市・滝沢市岩手郡雫石町紫波郡紫波町矢巾町)は1996年10月1日より現在の「019」に変更され(市内局番の頭に「6」が冠される形となってい)た。その後、桁ずれで使用可能となった60X~61X番台が枯渇したため、90X~92Xの市内局番が割り当てられ、現在に至る。 電話帳は「岩手県中央版」としてタウンページハローページが別々に発行されており、県央版は盛岡都市圏の市町村(盛岡市・雫石町・滝沢村・紫波町・矢巾町・八幡平市・岩手町・葛巻町)を収録(以前は「岩手県北版」として二戸地域の自治体も収録されていたが、現在は二戸地区と分離発行)。「テレパル50」は盛岡市内全域版ではなく各地域毎(松園・玉山区・市内中心部など)に分けて発行されている。

管轄警察署および消防署

警察署

  • 盛岡東警察署(北上川以東および雫石川以南の地区=盛岡市のうち旧都南村域・ゆいとぴあ盛南地区北部および仙北地区・玉山区を管轄)
    • 見前幹部交番機動捜査隊庁舎併設)
    • 菜園交番
    • 中の橋交番
    • 本町交番
    • 北山交番
    • 上田交番
    • 加賀野交番
    • 仙北町交番
    • 松園交番
    • おおみや交番
    • 飯岡交番
    • 桜台駐在所
    • 浅岸駐在所
    • 簗川駐在所
    • 中野駐在所
    • 玉山駐在所
    • 渋民駐在所
    • 好摩駐在所
    • 乙部駐在所
  • 盛岡西警察署(北上川以西および雫石川以北の地区・繋・滝沢市岩手郡雫石町を管轄)
    • 盛岡駅前交番
    • 前九年交番
    • 三ツ家駐在所
    • みたけ駐在所
    • 厨川駐在所
過去に管轄していた警察署
  • 紫波警察署(2016年3月31日まで盛岡市の旧都南村域全域を管轄していた。2016年4月1日より盛岡東警察署が管轄している。)

消防

  • 盛岡地区消防本部
    • 盛岡中央消防署
      • 松園出張所
      • 上田出張所
      • 玉山分署
    • 盛岡西消防署
      • 城西出張所
      • 厨川出張所
    • 盛岡南消防署
      • 仙北出張所

教育

要約
視点

教育史

公教育史
  • 寛永13年(1636年)、南部藩第3代藩主重直が盛岡城への「御新丸(現・岩手県警察本部)」建設に着手。
  • 寛永18年(1641年)、盛岡城御新丸完成。
  • 寛文8年(1668年)、南部藩第5代藩主行信が御新丸に「御稽古場」開設。武道の礎とする。
  • 明和8年(1771年)、南部藩第9代藩主智之、御稽古場を「武芸稽古場」として日影門外小路(現・日影門緑地)に移設。
  • 天保11年(1840年)、南部藩第13代藩主利済が武芸稽古場を基に藩校「明義堂」開校。儒学者・下田三蔵を招聘。
  • 安政元年(1854年)、南部家御薬園(現・盛岡市中央公民館)を明義堂の医学・経学教場とする。
  • 慶応2年(1866年)、南部藩第15代藩主利剛が明義堂を「作人館」と改称。修文所、昭武場、医学所に再編。
  • 明治元年(1868年)、作人館が戊辰戦争により休校。
  • 明治3年(1870年)、作人館に洋学所「日新堂」を加えて再開。「盛岡県学校」に再編。
  • 明治5年(1872年)、学制発布により一時閉鎖を余儀なくされる。
  • 明治6年(1873年)、修文所跡地に「第七大学区第十八番中学区第一番小学校」(現・仁王小学校)開校。「第七大学区第十八番中学区第十九番小学校」(現・厨川小学校)。「盛岡小学校」(現・城南小学校のルーツ)開校。
  • 明治7年(1874年)、「鍛冶町小学校」(現・城南小学校のルーツ)開校。
  • 明治8年(1875年)、「仁王小学」、「公立仁王学校」と相次いで改称。
  • 明治9年(1876年)、「盛岡師範学校」(現・岩手大学教育学部)設立。仁王学校にて「天覧授業」が行われ、明治天皇以下、岩倉具視・木戸孝允・大隈重信をはじめ文武百官が来盛。
  • 明治10年(1877年)、「盛岡師範学校附属小学校」設立。
  • 明治12年(1879年)、外山牧場獣医学舎(現・岩手県立盛岡農業高等学校)設立。
  • 明治13年(1880年)、内丸に「公立岩手中学校」(現岩手県立盛岡第一高等学校)設立
  • 明治20年(1887年)、「公立仁王学校」が「仁王尋常小学校」と改称。
  • 明治26年(1893年)、「盛岡第二尋常小学校(旧盛岡小)」と「盛岡第三尋常小学校(旧鍛冶町小)」を統合して、「城南尋常小学校」(現 盛岡市立城南小学校)が現在の「盛岡市立杜陵小学校」の地に開校。
  • 明治30年(1897年)、内丸に「岩手県実業学校」(現・岩手県立盛岡工業高等学校)開校。「岩手県尋常中学校」が「岩手県立盛岡尋常中学校」へ改称。「旧鍛冶町小学校」校舎にて「私立盛岡商業学校」(現・岩手県立盛岡商業高等学校)開校。盛岡高等小学校(現・盛岡市立下橋中学校)内に「盛岡市立高等女学校」(現・岩手県立盛岡第二高等学校)開校。
  • 明治32年(1899年)、「岩手県立盛岡尋常中学校」が「岩手県盛岡中学校」へ改称。
  • 明治34年(1901年)、「岩手県盛岡中学校」が「岩手県立盛岡中学校」と改称。「外山牧場獣医学舎」が「岩手県立農学校」へ改組。
  • 明治35年(1902年)、「盛岡市立高等女学校」が「岩手県立高等女学校」へ再編。
  • 明治36年(1903年)、上田三小路に「盛岡高等農林学校」(現・岩手大学農学部)開校。
  • 明治39年(1906年)、仁王尋常小学校に高等科を併置し、仁王尋常高等小学校と改称。
  • 明治41年(1908年)、工兵大隊・騎兵旅団の盛岡移転、盛岡停車場設立による人口増に対応するため「桜城尋常小学校」設立。「仁王尋常小学校」他から分離。内丸に「武徳殿」建設。
  • 明治44年(1911年)、「岩手県立高等女学校」が「岩手県立盛岡高等女学校」と改称。
  • 大正2年(1913年)、「仁王尋常小学校」跡地が「盛岡市立商業学校」校舎となる。
  • 大正9年(1920年)、「盛岡実践女学校」(現・盛岡市立高等学校のルーツ)、盛岡尋常高等小学校分教場(現・杜陵小)にて開校。
  • 大正12年(1923年)、「岩手県女子師範学校」が「岩手県立盛岡高等女学校」に併設開校。
  • 大正13年(1924年)、「私立盛岡夜間中学」(現・岩手県立杜陵高等学校)、岩手県立図書館で授業開始、同年設置認可。
  • 大正14年(1925年)、「盛岡実践女学校」が「盛岡女子商業学校」と改称。
  • 大正15年(1926年)、盛岡城御新丸跡に「岩手県女子師範学校附属小学校」(現岩手大学教育学部附属小学校)が開校。師範学校の上田移転により「仁王尋常高等小学校」が「盛岡師範学校附属小学校」の看板を併立する状態が昭和前期まで続く。
  • 昭和15年(1940年)、「盛岡市立第一高等女学校」、「盛岡国民学校」内に創設。「盛岡女子商業学校」が「盛岡市立女子商業学校」と改称。
  • 昭和21年(1946年)、「岩手県立盛岡高等女学校」」(現・岩手県立盛岡第二高等学校)に「岩手県立女子専門学校」(現・岩手県立大学盛岡短期大学部のルーツ)が併設開校。
  • 昭和22年(1947年)、仁王小学校に「仁王中学校」併設。
  • 昭和23年(1948年)、学制改革。「盛岡市立第一高等女学校」が「盛岡市立女子高等学校」と改称。「盛岡女子商業学校」が「盛岡市立女子商業高等学校」と改称。「岩手県立盛岡高等女学校」が「岩手県立盛岡第二高等学校」へ改称。「盛岡第一高等学校夜間定時制雫石分校」(現・岩手県立雫石高等学校)が開校。「岩手県立美術工芸学校」(現・岩手県立大学盛岡短期大学部のルーツ)開校。
  • 昭和24年(1949年)、「盛岡市立女子高等学校」と「盛岡市立女子商業高等学校」が統合し、「盛岡市立高等学校」が成立。「盛岡第一・盛岡第二・盛岡商業」の高等学校が統合し、「岩手県立盛岡高等学校」となる。新制大学制度により「岩手県女子師範附属小学校」が「岩手大学学芸学部附属小学校」として成立。
  • 昭和26年(1951年)、「岩手県立盛岡高等学校」の再分離。「岩手県立女子専門学校」が「岩手県立盛岡短期大学」となる。
  • 昭和28年(1953年)、御新丸跡の岩手県女子師範学校校舎に「岩手県消防学校」設立。(後の盛岡消防本部・岩手県警察本部)
  • 昭和29年(1954年)、「盛岡市立河北小学校」設立に伴い仁王小学校より分離。
  • 昭和31年(1956年)、「盛岡市立上田小学校」設立に伴い仁王小学校より分離。
  • 昭和33年(1958年)、「盛岡市立山王小学校」設立に伴い城南小学校より分離。
  • 昭和37年(1962年)、「岩手県立盛岡第三高等学校」、岩手大学学芸学部校舎にて開校。
  • 昭和39年(1964年)、「岩手県立盛岡第四高等学校」、盛岡商業高等学校校舎にて開校。
  • 昭和41年(1966年)、「岩手大学学芸学部附属小学校」が「岩手大学教育学部附属小学校」に改称。
  • 昭和44年(1969年)、岩手県立盛岡短期大学に「附属こまくさ幼稚園」設置。
  • 昭和48年(1973年)、仁王小学校に「盛岡市立中津川小学校」を統合。
  • 昭和49年(1974年)、「岩手県立盛岡北高等学校」、杜陵高等学校校舎にて開校。
  • 昭和55年(1980年)、「盛岡市立高松小学校」設立に伴い仁王小学校より分離。
  • 昭和56年(1981年)、「盛岡市立武道館」建造。
  • 昭和57年(1982年)、内丸の「武徳殿」解体。体育科を伴う「岩手県立盛岡南高等学校」開校。
  • 昭和63年(1988年)、岩手県初の学系制高校「岩手県立不来方高等学校」開校。
  • 平成2年(1990年)、「岩手県営武道館」創立。
  • 平成7年(1995年)、「盛岡市弓道場」建造。
  • 平成9年(1997年)、岩手県立大学設置に先立ち、盛岡短期大学の発展的解消に伴う募集停止。
  • 平成10年(1998年)、「岩手県立大学」開学。岩手県立盛岡短期大学を「岩手県立大学盛岡短期大学部」とし、滝沢キャンパスへ移転。附属こまくさ幼稚園は、「岩手県立大学附属こまくさ幼稚園」となる。
  • 平成11年(1999年)、「岩手県立盛岡短期大学」跡(住吉町)を、盛岡東警察署が建替間の仮庁舎として使用(2002年(平成14年)11月まで)。「こまくさ幼稚園」が盛岡教育事務所へ移管され、「岩手県立こまくさ幼稚園」となる。
  • 平成16年(2004年)、「岩手県立紫波高等学校」が、「岩手県立紫波総合高等学校」へ移行。
  • 平成21年(2009年)、岩手県立の特別支援学校の大再編を実施。
    • 岩手県立盛岡養護学校と同都南校が統合し岩手県立盛岡となん支援学校に改称。
      • 併せて、岩手県立療育センター内に岩手県立盛岡となん支援学校分教室を新設(院内学級扱い)。
    • 岩手県立松園養護学校が、同青山養護学校を統合のうえ、岩手県立盛岡青松支援学校に改称。
      • 併せて、もりおかこども病院内に岩手県立盛岡青松支援学校もりおかこども分教室を設置(院内学級扱い)。
    • 旧青山養護学校跡地に、岩手県立みたけ養護学校(滝沢村)から改称した岩手県立盛岡みたけ支援学校の高等部を新設。
    • 岩手県立盛岡高等養護学校が普通科部門と専門学科部分を分割の上閉校し、普通科部門は前述の盛岡みたけ支援学校へ移管し、専門学科部門は新設の岩手県立盛岡峰南高等支援学校へ移管。
    • 岩手県立盛岡聾学校が岩手県立盛岡聴覚支援学校に改称(併せて、閉校された岩手県立一関聾学校の高等部[注 22]の移管を受ける)。
    • 岩手県立盛岡盲学校が岩手県立盛岡視覚支援学校に改称。
私学史

高等教育

大学

国立

私立

後期中等教育

初等教育・前期中等教育

特別支援教育

盛岡市内には、知的障害に対応する小学部・中学部を有する特別支援学校は県立学校では所在せず、岩手大学教育学部附属特別支援学校のみとなっている(知的障害に対応する高等部を有する学校および他の4教育領域にそれぞれ対応する学校はすべて1校以上は所在する)。

2009年に、県立の特別支援学校全体で再編が実施され、従来の「盲学校」・「聾学校」・「養護学校」の名称が、これに併せて「支援学校」の名称に統一された。

情緒障害児短期治療施設としてことりさわ学園がある。

公立
  • 岩手県立盛岡視覚支援学校
  • 岩手県立盛岡聴覚支援学校
  • 岩手県立盛岡みたけ支援学校(高等部のみ)
  • 岩手県立盛岡峰南高等支援学校
  • 岩手県立盛岡となん支援学校
    • 岩手県立盛岡となん支援学校分教室
  • 岩手県立盛岡青松支援学校
    • 岩手県立盛岡青松支援学校もりおかこども分教室

交通

要約
視点

狭い市街地の渋滞緩和を図るため、路線バスの利用促進を図る。国からオムニバスタウンに指定されており、ゾーンバスシステムを軸に、路線バスの高度利用を進めている。

鉄道

Thumb
盛岡駅

JR東日本の各路線と、いわて銀河鉄道線が市内を通る。東京都へのアクセスは、最寄の花巻空港花巻市)に東京便がないこと、空港から盛岡市までのアクセスの問題から、空路より東北新幹線が圧倒的に優位である。

東日本旅客鉄道(JR東日本)
IGRいわて銀河鉄道

バス

市内の公共輸送は路線バスが主力。運行地域は市内のほぼ全域で、「支線バス」と「基幹バス」をバスセンターなどを通じて交通網を敷いている。

Thumb
市内を走る岩手県交通のバス
バス運行事業者

高速バス・特急バス

盛岡市以北の都市との間の高速バスは、東北新幹線に接続する路線として発達したが、東北新幹線が新青森駅まで延伸(2010年(平成22年)12月4日)したことで利用客が大幅に減少している[注 23]。ただし、「大館線」は大きな影響を受けていない。「仙台線」も東北新幹線と競合するが、新幹線の半額に運賃が設定されているため利用客は多い。 ※2007年度の利用客数も付記

昼行便
夜行便

道路

高速道路

地域高規格道路

一般国道

主要地方道

一般県道

市道

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北山の寺町通り
寺町通り
北山地区の中心を南北に通る幹線通りで、北は県沿岸北部へと通じるその道は、過去には国道455号の一部にも指定されていた[28]。1987年(昭和62年)8月10日に、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」に選ばれている[29]。沿道には報恩寺、龍谷寺、本誓寺などの寺院が数多くあり、市の環境保護地区「北山寺院群地区」に指定されている[28]。都市計画街路事業で古都盛岡のイメージを損なわず、落ち着いた環境にあった道づくりが行われ、長さ400メートル、幅16メートルの築地塀に囲まれた寺町として再整備され、石畳のような白い歩道、ナツツバキなどの街路樹はそのときに整備されたものである[28]

道の駅

マスコミ

岩手県は、情報格差の解消が遅れた地域で、在盛TV局のうち、フジテレビ系列岩手めんこいテレビテレビ朝日系列岩手朝日テレビ平成期の開局である。

新聞社

全国紙・広域紙
地方紙

放送局

県域放送

コミュニティFM

文化財

Thumb
岩手銀行赤レンガ館
(国の重要文化財)

国の指定・登録などに係るものは、重要文化財が14件、重要美術品が5件、重要無形民俗文化財が1件、選択無形民俗文化財が1件、史跡が2件、天然記念物が3件(地域を定めず指定されたものを除く)、登録有形文化財が2箇所(9件)である。盛岡市教育委員会歴史文化課ウェブページ を参照(指定などの件数については数え方の違いがあり、必ずしも上述の件数と一致しない)。

文化施設

Thumb
岩手県立美術館

観光・文化・名産・施設・スポーツ

要約
視点
Thumb
報恩寺・五百羅漢
Thumb
岩手大学農学部付属農業教育資料館(国の重要文化財)
Thumb
南昌荘庭園(国の登録記念物)
Thumb
石川啄木記念館

観光

平安時代以後の城柵・城館跡や、盛岡開府以来の城下町成立に伴う神社・仏閣がある。

温泉

祭事・催事

名産品・味覚

南部杜氏の本場である。海から遠い内陸部にある地理的条件などから寿司、海鮮料理の食文化が発達していない。「べんじぇもの(弁財物)」と呼ばれるこの地域独特な餅菓子類が多く見られ、この盛岡でよく食される特徴的な料理方法、食材、呼び方などは以下のとおりである。

Thumb
わんこそば
郷土料理
  • ひっつみ:郷土料理としての「すいとん
  • わんこそば:椀を重ねて次々と盛る動作は、元来、客を満腹にしてもてなす意味合いがある。当地では、冠婚葬祭の膳で最後に蕎麦を供するのが慣わしである。
  • 芋の子汁:本来、盛岡の「津志田芋」を煮て作る。芋の子汁を味わう集いを「芋の子食い」という。
Thumb
盛岡じゃじゃ麺
菓子
  • 醤油だんごみたらし団子とは異なり、古い団子の製法によって作られ、醤油のみを使用する串団子。全国的に見て、盛岡市近辺にのみ作られている。
  • ゆべし:北陸・九州で知られる「柚子釜ゆべし」と異なる。
  • きりせんしょ:ゆべしと同一視されることがある。関東以南で知られる「きりせんしょ」同様、山椒を加えることが稀にある。
  • お茶餅:「うちわもち」とも。胡桃味噌を塗して焼いた餅。
  • 鎌焼:「鎌」の歯に見立てた呼び名。胡桃餡や味噌餡などを包む。「味噌っぱさみ」とも。生地が白の場合、シソの葉で巻くことがある。
  • 花饅頭うるち米餅米をまぜ、ふかして作った菓子。桃の節句に食する。
  • 黄精飴:江戸時代に方長老が漢方薬として伝えたという「黄精(アマドコロ)」を使った菓子。
  • 葡萄飴山葡萄の甘味を生かした餅菓子。
  • 豆銀糖:江戸時代の豆銀に見立てた青豆菓子。
  • からめ餅:盛岡藩の「金山からめ節」に因んだとも、携行食ともいわれる。
  • 南部煎餅小麦をベースに胡麻胡桃落花生などをあしらった焼菓子。
  • ぶぢょほ団子:黒蜜を包んだ一口餅。噛むと黒蜜が飛び出すため一口で食べねばならず、「不調法(行儀が悪いこと)」に見えることからその名が着いた。
  • 豆しとぎ枝豆で製する蒸し菓子。
  • がんづき(雁月):小麦粉と胡桃・胡麻を混ぜ蒸した菓子。まぶした胡桃が月を渡る雁に見えることから。
  • へっちょこ団子:一口大の白玉団子をへこませて茹で、汁粉に入れて食す。「へっちょこ」とは、臍のこと。
  • 小麦餅:小麦粉を練って焼いた自家製菓子。
  • 蕎麦餅:蕎麦粉を練って焼いた自家製菓子。
  • 干し餅:餅を薄く切って乾燥させたもの。揚げたり湯に浸し崩して食べる。
  • 薄焼き:主に祭礼の出店で売られる、小麦粉を伸ばして焼いたクレープ状の菓子。
  • 盛岡駄菓子:元来、保存食として生まれ、祭事に用いられ子どもの菓子として定着した。石衣(兎玉)、青柳、丹切、茶玉、肉桂玉、薄荷糖(薄荷の香りのついた砂糖菓子[31])、生姜糖、焼酎糖、黄粉ねじり、ラッキョウ飴など。正月に限り、相撲力士を象った小麦菓子を売る習慣がある。
  • ロシアビスケット:ロシアから伝わった非常に硬い胡桃のビスケット。現在は盛岡市内正食普及会より販売。
食材の呼び方・食習慣
清酒銘柄
盛岡市内
盛岡市近郊
地ビール

スポーツ

サッカー

バスケットボール

かつて存在したスポーツチーム

盛岡を舞台とした作品

音楽
文学
漫画
絵本

著名な出身者

政官財界・法曹界・学界

作家・芸術家・漫画家

俳優・芸能界・アナウンサー・スポーツ選手

ゆかりのある人物

脚注

参考文献

関連文献

関連項目

外部リンク

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