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厚木たか

日本の映画監督 (1907-1998) ウィキペディアから

厚木たか
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厚木 たか(あつぎ たか、1907年明治40年〉3月3日[1] - 1998年平成10年〉5月19日[1])は、日本の記録映画作家。本名・芳賀 松江[2][1]

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婦人民主クラブの面々。たかは前列左から3人目。

生涯

1907年明治40年)群馬県伊勢崎市新町に岡田清平・すみの長女として生まれる[2]1929年昭和4年)日本女子大学英文科卒[2]

1930年(昭和5年)、日本プロレタリア映画同盟に参加[1]1934年(昭和9年)にPCL(現・東宝)に入社[2]1938年(昭和13年)芸術映画社に移る[2]。構成を担当した『或る保姆の記録』(芸術映画社、1942年)が国民映画賞を受賞[要検証]

朝日映画にも一時所属したが、1945年(昭和20年)以降はフリーの脚本家となる[2]1958年(昭和33年)『おふくろのバス旅行』で教育映画祭最高賞ブルーリボン賞受賞[2][1]。脚本を担当した上野耕三・山添哲監督『オートメーション ―限りなき前進―』(記録映画社1968年)が日本産業映画コンクール奨励賞[3]荒井英郎監督『われわれは監視する—核基地横須賀—』(横須賀を映画で記録する会、1975年)がモスクワ映画祭平和委員会賞、ライプツィヒ国際記録・短編映画祭金鳩賞をそれぞれ受賞[4]

1946年(昭和21年)婦人民主クラブの結成に参加[1]。1958年(昭和33年)オーストリア原水爆禁止を訴えた[1]1979年(昭和54年)には日本で最初の眺望権をめぐる裁判に勝訴している[1]

一時期哲学者の森宏一と結婚していたがその後離婚。夫はアメリカで左翼活動を展開した芳賀武。

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フィルモグラフィ

  • 水木荘也監督『或る保姆の記録』(芸術映画社1942年) - 構成
  • 森永健次郎監督『転換工場』(朝日映画社1944年) - 脚本
  • 水木荘也監督『わたし達はこんなに働いている』(朝日映画社、1945年) - 構成
  • 京極高英監督『少女たちの発言』(新世界映画社、1948年) - 脚本
  • 宮津博監督『善太と三平』(東洋映画、1955年) - 脚色
  • 柳澤壽男監督『どこかで春が』(新映画ぷろだくしょん、1958年) - 脚本
  • 鈴木重吉構成・編集『東京オリンピックへの道』(1963年) - 脚本
  • 上野耕三・山添哲監督『オートメーション ―限りなき前進―』(記録映画社、1968年) - 脚本
  • 荒井英郎監督『われわれは監視する—核基地横須賀—』(横須賀を映画で記録する会、1975年) - 脚本
  • 森永健次郎・川尻泰司監督『セロ弾きのゴーシュ』(1982年) - 製作

ビブリオグラフィ

  • 雑誌掲載エッセイ・座談会
    • 1947年、「映画展望」誌に「映演スト・二つの意義」[5]
    • 1952年、「平和の色紙展」を『新日本文学』6月号に掲載。
    • 1959年、「ヨーロッパの旅から-1〜3」を『新日本文学』2月号、3月号、4月号に掲載。
    • 1968年、「歴史映画から現代の課題へ -婦人解放運動史映画化のなかで」を『月刊社会教育』12月号に掲載。
    • 1975年、研究誌『現代と思想』(青木書店)の座談会「プロキノの活動」に参席。
    • 1976年、「軍部と特高警察のシナリオ検閲」を『文化評論』4月号に掲載。
  • 著書
    • 『それでもなお私は働く』(明治図書出版、1966年
    • 『女性ドキュメンタリストの回想』(ドメス出版、1991年
  • 訳書
    • 『文化映画論』(ポール・ローサ、第一芸文社、1938年
    • 『ドキュメンタリィ映画』(ポール・ローサ、みすず書房、1960年
    • 『ドキュメンタリィ映画』(ポール・ローサ、未來社、1976年

出典

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