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原爆十景
1947年に広島市が選定した10の風景評価 ウィキペディアから
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原爆十景(げんばくじっけい)とは、広島市への原子爆弾投下の惨劇を伝えるべく広島市が選定した10の風景評価(十景)。1947年のみ選定し発表[1]。
概要
1947年に第1回平和祭(後の広島平和記念式典)が開かれ、開催後に市役所職員数人で市内から探し十景が発表された[1]。
そもそもの発端は市職員と地元紙中国新聞記者との会話の中で思いついた企画で、被爆により廃墟となった広島で普通の空襲によるものとの違いが如実に出ているもの、そして何もなくなった広島において新たな観光名所として選ばれた[1][2]。また、被爆を忘れてしまいたい側の市民感情を配慮し刺激的なものは意図的に外しているため、この段階ではのちの原爆ドームである産業奨励館などは選出されていない[1]。
これをきっかけとして翌1948年から「原爆名所」「原爆記念保存物」として選定を初め、現在の市による被爆建物選定へと続く[3]。現在、都市発展に伴い消滅しているものもある。
十景
- 以下、2007年4月30日付中国新聞の記事[1]を主に参照し記載する。
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その後
翌1948年から市の事業として本格的に選定を始める[1][3]。これに都市復興アドバイザーを務めていたイギリス連邦占領軍S・A・ジャビー少佐は、内外へのアピールをより重視すべきとアドバイスし、更に被爆建物の保存キャンペーンを打ち出した[1][2]。つまり、原爆ドームの保存運動を始めたのはジャビーが最初だといえる[2]。同年、「原爆記念保存物」あるいは「原爆名所13景」として発表、以下の13箇所が選ばれた[2][3]。
- 現在の島病院前モニュメント
- 現在の元安橋
- 現在の原爆ドーム
- 現在の相生橋
- 1947年護国神社跡で行われた昭和天皇広島行幸の様子。右に商工会議所、中央に原爆ドームが見える。
- 現在の大本営跡
この企画が当たり、海外からの観光客が見学に訪れ、外国人に対応出来る観光ホテルの設置を強く要望されるほどだった[3]。
1960年代以降、原爆ドームを筆頭に活発な被爆建造物存続論争に発展していった。その中で被爆資料も増えたが、1979年には痕跡を残していない樹木が「被爆樹木」として、1985年広島市役所旧庁舎の礎石が「被爆石」として資料化とされるなど、年月が経つと被爆当時にただ存在していたものも資料として登録されるようになった[3]。
50年目の節目を迎え、1990年代初期から市は被爆遺構を洗い直し、1993年に改めて「被爆建物」「被爆樹木」「被爆橋梁」台帳にまとめた。
1995年、世界遺産に原爆ドームが登録される。
脚注
関連項目
外部リンク
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