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友田美喬
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友田 美喬(ともだ みきょう、弘化4年(1847年)頃 - 明治38年(1905年)12月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。長州藩出身の武士。
概要
友田美喬は山口県士族(旧長州藩士)として生まれ、明治4年(1871年)に陸軍大尉へ任じられ、明治7年(1874年)には正七位となった[1]。西南戦争では歩兵第2連隊第三大隊長心得として参戦し、この年中に少佐へ進級、明治11年(1878年)には勲四等を授与された[1]。その後も同連隊の大隊長として宇都宮営所勤務を続け、明治13年頃には従六位に叙せられた[1]。
明治15年(1882年)には同連隊第一大隊長へ転じ、明治16年(1883年)7月に中佐、同年8月に正六位となる[1]。明治18年には勲三等に叙され、旭日中綬章を受勲した。翌明治19年(1886年)8月25日、初代歩兵第21連隊長に任ぜられ、明治20年(1887年)4月27日に陸軍大佐へ昇進した[2]。
明治16年7月12日には歩兵第14連隊長、明治19年6月16日には歩兵第21連隊長を務め、明治26年(1893年)2月13日に休職となる[2]。その後、明治27年(1894年)12月9日には後備歩兵第4連隊長に任じられ、日清戦争では後備部隊として平壌・義州に滞陣した[1]。
明治29年(1896年)1月27日に陸軍少将へ進み、同日付で予備役に編入された[2]。晩年は広島県上柳町の自宅に住し、明治38年(1905年)12月17日に死去、享年59。同21日、広島市において葬儀が営まれた[1]。
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脚注
参考文献
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