トップQs
タイムライン
チャット
視点
吉田玉男 (初代)
日本の人形師 (1919-2006) ウィキペディアから
Remove ads
初代 吉田 玉男(しょだい よしだ たまお、1919年1月7日 - 2006年9月24日)は、日本の文楽人形浄瑠璃の人形遣い、重要無形文化財保持者(人間国宝)。
来歴・人物
1919年(大正8年)大阪府大阪市に生まれる。本名・上田末一(うえだ すえいち)。三男二女の末子として生まれ、父親は次々と仕事を変えていたが、玉男が生まれた頃は兄二人がすでに働いていたため、生活は比較的ゆとりがあった[1]。生まれ育った日本橋5丁目は文楽関係者が多く住む地域だったが、13歳で文楽に道に進むまで家族の誰も文楽を見たことはなかった[1]。
早く働きたい希望があり、小学生の頃から夜間の難波商工学校に通い、尋常高等小学校を中退して13歳で会社勤めを始めたが、学歴による待遇の差を知り、両親の勧めで文楽の人形遣いを目指し、文楽座に通う[1]。
1933年(昭和8年)吉田玉次郎に入門し、玉男と名乗る。立役(男役)。戦中二度出征。戦後『曽根崎心中』の徳兵衛役が当たり役となり、生涯で1136回務めた。抑制の効いた、理知的な動きの中に、秘めた情感や品良き色香を表現し、その技は最高峰と謳われた。
1966年(昭和41年)「源平引布滝」三段目瀬尾で大阪府民劇場奨励賞を受賞。さらに1977年(昭和52年)重要無形文化財保持者(人間国宝)認定、1978年(昭和53年)紫綬褒章受章[2]。
1989年(平成元年)勲四等旭日小綬章受章、1997年(平成9年)朝日賞受賞[3]、2000年(平成12年)文化功労者、2003年(平成15年)京都賞思想・芸術部門(映画・演劇分野)受賞[4]。
1995年(平成7年)に咽喉腫瘍を発症して手術し、2003年(平成15年)に病が再発した後は舞台休演が目立つようになり、2005年(平成17年)8月の国立文楽劇場(大阪市)公演を最後に舞台に立つことはなかったが、現役を引退することはなかった[5]。
2006年(平成18年)9月24日、肺炎のため大阪市内の病院で死去[5][6]。87歳没。墓所は大阪市天王寺区の浄土宗銀山寺に在所する[7]。
Remove ads
出演
平成の中頃に、玉男の小学校時代の同級生の孫が『探偵!ナイトスクープ』に「人間国宝の頭を叩きたい」との投書依頼に応えて出演。
同級生(依頼者の祖父)と探偵が玉男を自宅に訪ね、再会を果たした時に、探偵が説明をする前に、小学校卒業以来、半世紀以上会っていない同級生の顔を見て「お!◎◎くんやん。久しぶり」と声を掛け、自宅に招き、依頼が成功したというエピソードがあった。
関連書籍
参考資料
「第一〇四回=文楽公演 平成十八年十一月 国立文楽劇場」公演パンフレット(平成18年11月4日独立行政法人日本芸術文化振興会発行)
脚注
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads