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吉田竜夫

日本の漫画家、アニメ原作者 (1932-1977) ウィキペディアから

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吉田 竜夫(よしだ たつお、1932年3月6日 - 1977年9月5日)は、日本漫画家、アニメ原作者、実業家[1]。本名・吉田龍夫(読みは同じ)。京都府京都市出身[1]アニメ制作会社タツノコプロの設立者で初代代表取締役。

概要 よしだ たつお 吉田 竜夫, 本名 ...
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来歴

1932年、京都市に生まれる[1]。終戦後間もなく、両親を失う。絵を独学で学び、新聞雑誌挿絵紙芝居の下絵などを描いて生計を立てる。地元・京都の新聞社で働いた後に上京し、絵物語作家として活動を始める[注 1]。1954年にデビューした後、1955年から梶原一騎と組んで作品制作を続ける。1960年代には漫画家に転向。梶原と組んだ『チャンピオン太』やオリジナル作品の『少年忍者部隊月光』がヒットし、相次いでテレビドラマ化された。特に『忍者部隊月光』は2年間放映され、映画も作られるなど忍者ブームの一端を担った。

1962年10月、実弟の吉田健二九里一平とともに株式会社竜の子プロダクション(現・タツノコプロ)を設立[2]。初代社長に就任する[1]。当初は漫画専門のプロダクションとして創設され、吉田の版権やアシスタントを管理を行なっていたが、吉田がアニメーション制作に強い意欲を持ち始めたことからアニメ制作に乗り出す[3][4][5]

1965年、タツノコプロのアニメ第一作『宇宙エース』が放映される[3][6]。その後も次々と日本アニメ史上に残るヒット作品を世に送り出す[3][5]

1972年、『昆虫物語 みなしごハッチ』で第17回小学館漫画賞を受賞[7]

1977年9月5日午後9時10分、肝臓がんのため東京都千代田区の日本医科大学付属第一病院で死去[8]。45歳没。

吉田の死後、社長は弟の吉田健二[注 2]と九里一平[注 3]が引き継ぐ。しかし、タツノコプロが大手玩具メーカータカラ(現・タカラトミー)の子会社となったのに伴い、2人とも2005年7月に退任した。

2005年、東京国際アニメフェアで行われた東京アニメアワードにて、「日本のアニメを作った20人」の一人として特別功労者賞が授与された[1][注 4]

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人物

タツノコプロ(竜の子プロダクション)の創設者として知られる[4]。初代社長として『科学忍者隊ガッチャマン』『ハクション大魔王』『昆虫物語 みなしごハッチ』など数々のヒット作品を世に送り出し、日本アニメの黎明期を支えた[3]

創業経営者一族の「吉田三兄弟」の長男であり、次弟は吉田健二(アニメプロデューサー、タツノコプロ第2代社長・初代会長)、三弟は九里一平(本名:吉田豊治、漫画家・アニメプロデューサー・タツノコプロ第3代社長)[9]。デザイナー、イラストレーターの吉田すずかは長女[10]

漫画などの原作をもとにしないオリジナルのテレビアニメ作品の制作にこだわり、アメコミのような絵柄でアメリカ的なアニメーションを制作するなど、ほかのアニメ制作会社ではやらないような挑戦をした[3][6][11]

タツノコアニメの初期のキャラクターのデザインは、骨格がしっかり描かれた緻密でクオリティーの高い吉田の画風で描かれていた[3]。当時はタツノコアニメ第一作『宇宙エース』のような簡略化した絵を動かすのが主流だったが、吉田はアメコミのような劇画を動かすことにこだわって『マッハGoGoGo』を作り上げ、それがタツノコプロの源流となった[6]。しかし、他のアニメーターたちには吉田のタッチを真似ることが難しく、スケジュールを順調に進めるためにデフォルメを効かせたシンプルな線のギャグアニメを制作ローテーションに入れることになり、その事が結果としてタツノコの作品の幅を広げた[3]

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受賞歴

主な作品

漫画・挿絵・イラスト

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アニメ

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関連人物

親族

  • 吉田健二 - 次弟。アニメプロデューサー、タツノコプロ第2代社長・初代会長。
  • 九里一平(本名:吉田豊治) - 三弟。漫画家・アニメプロデューサー・タツノコプロ第3代社長。
  • 吉田すずか - 長女。タツノコプロ所属のデザイナー、イラストレーター。
  • 中野ちひろ - 次女。タツノコプロ編集技師。
  • 吉田みちる - 三女。アニメ制作会社Production I.G役員、歌手「MIRChee(みるちぃ)」。
  • 石川光久 - 元タツノコプロ社員、Production I.G創設者。三女・みちるの元夫。

アシスタント

エピソード

  • 「世界の子供たちに夢を(与えたい)」が口癖であり同時にこれを社是とした[12]
  • 相当な子煩悩であり、自身の子供たちが仕事場をうろついている時も、決して邪魔者扱いはしなかったという。また逆に、子供たちの落書きからアイディアを捻り出そうとし、スタッフに子供たちのスケッチを見せて「使えないか?」と問うた事もあったという。これが高じて長女のすずかは父や叔父たちと同じく漫画家となりデザイナーの道を歩むようになったという。すずかの漫画家デビューの決定は肝臓がんによる闘病の最中かつ、まさしく死の寸前であり、漫画家となった娘にかなり喜んだとされる[12]

脚注

関連項目

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