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石川光久

日本のアニメーションプロデューサー、実業家、大学教授 ウィキペディアから

石川光久
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石川 光久(いしかわ みつひさ、1958年10月30日 - )は、日本アニメーションプロデューサー実業家大学教授。株式会社IGポート代表取締役社長、株式会社プロダクション・アイジー代表取締役会長、株式会社タツノコプロ非常勤取締役、日本動画協会理事、東京大学大学院情報学環特任教授

概要 いしかわ みつひさ 石川 光久, 生年月日 ...

株式会社イング社長、株式会社プロダクション・アイジー代表取締役社長などを歴任した。2003年「アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー・ジャパン(EOY JAPAN 2003)」大賞受賞 日本代表に選出され、翌年モナコの世界大会に出場。2004年 デジタルコンテンツグランプリDCAJ会長賞を受賞。

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概要

東京都出身。1980年代に、タツノコプロにて制作やプロデューサーを担当する。『赤い光弾ジリオン』のプロデューサーを担当した後、独立してアイジータツノコ(のちのプロダクション・アイジー)を設立した。2005年にプロダクション・アイジー株式ジャスダックに上場し、ビジネス誌から取材を受けるなど企業経営者としても注目を浴びる。また、2004年に東京大学大学院情報学環特任教授に就任する。

現在はプロダクション・アイジーの代表取締役会長を務めるとともに、アメリカ合衆国の現地法人の社長、同社やマッグガーデンなどを傘下に擁する持ち株会社IGポート」の代表取締役も兼任する。また、竜の子プロダクションでは非常勤で取締役を務めている。

プレイステーションゲーム『やるドラ』シリーズで、企画、原作、制作をプロダクションI.Gが担当。ゲームの自社開発に参入。テレビドラマ『ケータイ捜査官7』で初の実写作品を制作。

イノセンス』で共同プロデューサーを一緒にした際、「スタジオジブリの社長をやってくれないか」ともう一人のプロデューサー鈴木敏夫から打診されたが断っている[1]

キル・ビル』のアニメパート制作を打診されたとき他の仕事で手一杯だったので断ったら、クエンティン・タランティーノ本人がアポなしで東京・国分寺の本社まで直談判しに来た[2]

キックハート』で日本のアニメ初のクラウドファンディングを活用した[3]

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来歴

生い立ち

東京都八王子市農家に生まれた。中学校高等学校の野球部では主将を務めた。子供時代からテレビを見ることはあまりなく、アニメには全く興味がなかったという。明星大学在学中に文楽を見て感動し、同じ人形芝居ということで八王子市にある古典芸能の人形劇団「八王子車人形」に属して人形作りや黒衣の修行を積む。人形劇団が国外で公演している間のアルバイトとして、劇団関係の仕事と勘違いしてアニメ制作作会社竜の子プロダクション(通称タツノコプロ)へ。

竜の子プロダクション

テレビアニメ『黄金戦士ゴールドライタン』で、制作進行として働く。アニメーターなかむらたかしとの出会いを得て、アニメへの関心が湧くが、『黄金戦士ゴールドライタン』終了後は国外を10ヶ月ほど放浪、帰国後に偶然会った真下耕一の誘いで『未来警察ウラシマン』で復帰する。同作で制作進行を経て、制作デスクとなる。

石川がプロデューサーとして活動した1980年代半ば以降の竜の子プロダクションは、どんどん人材が流出していた。石川自身は竜の子プロダクションに「よくしてもらった」と恩義と感謝を口にするが、制作状況の悪化にアニメ自体をやめようとまで思いつめる。その最後の作品にするつもりだったのがテレビアニメ『赤い光弾ジリオン』である。当初は竜の子プロダクション社内でも石川に任せることに反対論があったというが、これを石川は成功させ、『赤い光弾ジリオン』制作のために集まったスタッフのために独立を決意。そうして設立された「アイジータツノコ」は、竜の子プロダクションからも出資をしてもらうとともに作品の下請けをもらい、形の上では円満な暖簾分けであった。

プロダクション・アイジー

1993年、アイジータツノコの社名を「プロダクション・アイジー」に変更する[4]。その後、版権管理事業を担当するイングと合併させる[5]

2007年、プロダクション・アイジーを「IGポート」に社名変更した上で持ち株会社化し、出版社をマッグガーデンなどを傘下に収める[5]。また、同社のアニメ制作事業は、分割新設会社であるプロダクション・アイジーに引き継がせた[5]

2022年8月30日、代表取締役社長を退任し代表取締役会長に就任した[6]

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家族・親族

竜の子プロダクション創業者の吉田竜夫三女でアニメのカラーデザインや制作を担当していた吉田みちると『赤い光弾ジリオン』の頃に結婚[7]吉田健二九里一平吉田すずから吉田一族と姻戚になる。みちるはプロダクション・アイジーの取締役を務め、2人の娘をもうけたが[8]、2006年になって離婚した[9]

参加作品

タツノコプロ時代

1981年
1983年
1984年
1985年
1986年
1987年

I.Gタツノコ/Production I.G 時代

1989年
1990年
1991年
1992年
1993年
1994年
1995年
1996年
1997年
1998年
1999年
2000年
2001年
2002年
2003年
2004年
2005年
2006年
2007年
2008年
2009年
2010年
2011年
2012年
2013年
2014年
2015年
2016年
2017年
2018年
2019年
2022年
2023年
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出演作

著書

脚注

関連書籍

関連人物

外部リンク

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