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吉野信次
日本の官僚 ウィキペディアから
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吉野 信次(よしの しんじ、1888年〈明治21年〉9月17日 - 1971年〈昭和46年〉5月9日)は、日本の商工官僚、政治家。
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生涯
宮城県志田郡大柿村(現大崎市)に綿屋を営む吉野年蔵、こう夫妻の三男として生まれた。吉野作造は長兄である。
古川中学(宮城県古川高等学校)、一高を経て、1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学独法科を首席卒業(銀時計受領)し、農商務省に入省する。農商務大臣秘書官、農商務省が農林省と商工省に分離後は商工省に移り、文書課長、工務局長を経て、1931年(昭和6年)商工次官。その後も特許局長官、東北興業総裁、東北振興電力社長を歴任する。後に商工次官・大臣となった岸信介は腹心の部下であり、重要産業統制法の起案にともに携わった[1]。
革新官僚の出身として、1937年(昭和12年)第1次近衛内閣の商工大臣に就任する。1938年(昭和13年)12月9日、貴族院議員に勅選される[2]。同年満州重工業開発副総裁となる。また翼賛政治会常任総務、1943年(昭和18年)から1945年(昭和20年)まで愛知県知事も務めた。1946年(昭和21年)2月16日、貴族院議員を辞任した[3]。
戦後は、上記の経歴により公職追放となる。追放解除後の1953年(昭和28年)第3回参議院議員通常選挙に参議院宮城地方区から立候補し当選する。1955年(昭和30年)第3次鳩山一郎内閣の運輸大臣として入閣する。1964年(昭和39年)秋の叙勲で勲一等瑞宝章受章(勲二等からの昇叙)[4][5]。
1956年(昭和31年)から1965年(昭和40年)まで武蔵大学学長も務めた。
1971年5月9日死去、82歳。死没日をもって勲一等旭日大綬章追贈、従三位から正三位に叙される[6]。墓所は多磨霊園。
没後、岸を代表に旧商工省関係者の編で、追想録『吉野信次』(同追悼録刊行会編、1974年)が出された。
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選挙歴
著書
脚注
参考文献
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