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名古屋市立牧野小学校
名古屋市中村区の公立小学校 ウィキペディアから
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名古屋市立牧野小学校(なごやしりつ まきのしょうがっこう)は、名古屋市中村区竹橋町にある公立小学校。
沿革
要約
視点
名古屋市中区米野町と牧野町を学区としていた米野尋常小学校の児童増加に対応するため、1927年(昭和2年)12月に牧野尋常高等小学校が設置された[1]。校地は則武耕地整理組合地区内、米野町字牧野裏に取得された[2][1]。
開校当初から高等科が併置されていたが、児童の急速な増加に対応するため、1940年(昭和15年)9月に中村区内の小学校高等科が集約されて豊国高等小学校が設置された[3]。
太平洋戦争下の1944年(昭和19年)、名古屋市では学童疎開が勧奨された[4]。牧野国民学校では8月12日に岐阜県羽島郡竹ヶ鼻町(約470名)、小熊村(27名)、福寿村(45名)、江吉良村(40名)へ集団疎開が行われた[4]。帰郷は1945年11月24日と1946年3月10日の2度に分けて行われた[4]。この間に行われた名古屋大空襲で校舎が被災しており、1945年3月19日に全焼した[5]。当時の名古屋市では半数以上の小学校が同様に全焼し、戦後校舎を新築するまでは戦災を免れた校舎やその他の建物で二部教授を行うことで対処された[5]。
学制改革により1947年(昭和22年)4月に新制小学校となった[6]。同年10月に木造校舎が竣工した[7]。その後も校舎の整備が行われており、1952年10月に鉄筋コンクリート造3階建ての校舎(北校舎)が、1960年3月に校歌で「白亜の学校」とうたわれる校舎が竣工した[7]。
年表
- 1927年(昭和2年)
- 1937年(昭和12年)10月1日 - 名古屋市の中村区新設により、所在地表記が中村区米野町字牧野裏となる[9]。
- 1940年(昭和15年)
- 1941年(昭和16年)4月1日 - 国民学校令施行により、牧野国民学校となる[12]。
- 1944年(昭和19年)8月12日 - 岐阜県羽島郡への集団疎開出発[4]。
- 1945年(昭和20年)
- 1946年3月10日 - 集団疎開第2次帰郷[4]。
- 1947年(昭和22年)
- 1952年(昭和27年)10月10日 - 鉄筋コンクリート造り3階建て校舎竣工[7]。
- 1960年(昭和35年)3月12日 - 校舎増築完成[7]。
- 1965年(昭和40年) - 体育館兼講堂・プール落成[13]。
- 1968年(昭和43年) - 順次全教室に集団反応分析装置を設置[14][7]。
- 1974年(昭和49年)
- 1987年(昭和62年)度 - 校舎改修[17]。余剰教室をコンピュータルーム・多目的ルームに転換[17]。
- 1993年(平成5年)度
- 1996年(平成8年)度 - インターネット接続環境を整備[15]。
- 2007年(平成19年)度 - 前年度から実施した西校舎・北校舎の耐震補強工事を完了[18]。
- 2009年(平成21年) - 特別支援学級を開設[8]。2012年にも開設している[8]。
児童数の変遷
『愛知県小中学校誌』によると、児童数の変遷は以下の通りである[8]。
1947年(昭和22年) | 1,210人 | |
1957年(昭和32年) | 1,924人 | |
1967年(昭和42年) | 1,227人 | |
1977年(昭和52年) | 731人 | |
1987年(昭和62年) | 455人 | |
1997年(平成9年) | 233人 | |
2007年(平成19年) | 274人 | |
2017年(平成29年) | 188人 |
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通学区域
所管する名古屋市教育委員会は、2019年(令和元年)9月1日現在、中村区のうち、上米野町1丁目・太閤通3丁目から同4丁目・西米野町1丁目・若宮町の全域および黄金通1丁目から同7丁目・太閤一丁目・太閤三丁目・太閤四丁目・太閤五丁目・竹橋町・椿町・則武二丁目・則武本通3丁目・名楽町1丁目の各一部を通学区域として指定している[WEB 1]。
また、卒業後の進学先は名古屋市立黄金中学校となっている[WEB 2]。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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