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呂号第百三潜水艦

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呂号第百三潜水艦(ろごうだいひゃくさんせんすいかん)は、日本海軍潜水艦呂百型潜水艦(小型)の4番艦。

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艦歴

1941年昭和16年)の昭和16年度計画(マル臨計画[1]により、1941年6月30日、呉海軍工廠で起工。1941年12月6日進水。1942年(昭和17年)10月21日に竣工し、二等潜水艦に類別[1]。同日、呉鎮守府籍となり[3]、訓練部隊である呉鎮守府呉潜水戦隊に編入された。

1943年(昭和18年)1月5日、第八艦隊第7潜水戦隊に編入[3][4]

同日、呂103は呉を出港し、14日にトラックに到着[3]。2月4日、トラックを出港し、8日にラバウルに到着。9日、ラバウルを出港し、ポートモレスビー東方沖合に進出[4]。28日、ラバウルに到着。

3月7日、呂103はラバウルを出港し、第八十一号作戦の生存者救出に向かう[4]。8日夜、南緯08度20分 東経150度45分のキリウィナ島近海で地図にないサンゴ礁に座礁する。これを受け、呂101が救援に向かうこととなった。呂103では消耗品と食糧、魚雷を投棄して艦を軽くしようとする。10日、南方を航行する駆逐艦を発見し、機密文書を海に捨てるよう命令が出されるが、駆逐艦は呂103を発見することなく去っていった。11日、呂103は燃料と真水の投棄を行った後離礁作業を行い、呂101が到着する前に自力で離礁に成功。17日、ラバウルに到着[4]

30日、呂103はい号作戦に参加するべくラバウルを出港[4]。4月20日、ラバウルに到着。哨戒中の15日、第7潜水戦隊は南東方面艦隊所属となる。

5月9日、呂103はラバウルを出港し、ガダルカナル島東方沖合に進出[4]。6月1日、ラバウルに到着。

12日、呂103はラバウルを出港し、ガッカイ島方面に進出[4]。23日、南緯11度26分 東経162度01分サンクリストバル島東端で米貨物輸送艦アルドラ (USS Aludra, AK-72)を撃沈し[4]、同ダイモス(USS Deimos, AK-78)を撃破。その後、ダイモスは、南緯11度35分 東経162度08分の地点で米駆逐艦オバノン(USS O'Bannon, DD-450)に砲撃処分された[5]。29日日没後、ガトカエ島南方沖で、浮上充電中に敵輸送船団を発見。7月4日、ラバウルに到着。

11日、呂103はラバウルを出港し、レンドバ島方面に進出[4]。13日、バングヌ島ヴァンガ湾近海に移動。

15日から24日にかけて、3回ほど敵艦船を発見するも、攻撃はできなかった[3]。28日、ニュージョージア島北方沖合で敵艦船3隻を発見したとの報告を最後に消息不明[1][4]

アメリカ側にも記録はなく、艦長の市村力之助大尉以下乗員43名全員行方不明(戦死認定)[6]

8月10日、ソロモン諸島方面で亡失と認定され、同11月1日に除籍された。

撃沈総数は2隻で、撃沈トン数は14,616トンである。

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歴代艦長

艤装員長

  • 不詳

艦長

  • 藤田秀範 大尉:1942年10月21日 - 1943年3月15日[6]
  • 市村力之助 大尉:1943年3月15日 - 8月10日戦死認定[6]

脚注

参考文献

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