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和泉市立北松尾小学校
大阪府和泉市にある小学校 ウィキペディアから
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和泉市立北松尾小学校(いずみしりつきたまつおしょうがっこう)は、大阪府和泉市にある公立小学校。
概要
市内を南北に流れる松尾川が形成する松尾谷の北部に位置し、旧北松尾村(寺田町全域と内田町の一部を除く)およびトリヴェール和泉西地区のあゆみ野を校区としている。
1872年(明治5年)に創立され、150年以上の歴史を持つ。市内にある小学校の中でも最も古い小学校の一つである。2024年(令和6年)5月1日現在の生徒数は645名で、市内では青葉台はつが野小学校、いぶき野小学校、国府小学校に次いで4番目に生徒数が多い[1]。
校歌
作詞は吉岡たすく、作曲は紙恭輔による。歌詞は全3番で構成されており、校訓「考えあって学びます 励ましあって進みます」が歌詞の中に織り込まれている[2]。また、歌詞中に登場する「機の音(はたのおと)」は、かつてこの地域で綿織物が盛んであったことに由来する。当時は至る所から織機の音が響き渡り、この地域は「機の町(はたのまち)」と呼ばれていたことを反映している[3]。
歴史
明治維新後、日本では近代的な教育制度が導入され、各地に小学校が設立された。堺県では村々を単位として学区を編成し、各学区には郷学校本校とその出張所(分校)が設置された。
松尾谷における小学校の始まりは、1872年(明治5年)6月15日に唐国村で創設された郷学分校である。春木村、松尾寺村、唐国村、箕形村、内田村、寺田村、寺門村は池田谷の村々とともに第十四区[注釈 1]に属した。一方で、谷の奥に位置する春木川村、久井村、若樫村が横山谷の村々とともに第十三区[注釈 2]に区分された。
唐国村に設置された郷学分校は第十四区の分校として機能し、校舎には妙楽寺の堂宇が借用された[5]。これが後の北松尾小学校である。
沿革
- 1872年(明治05年)06月15日 - 創立、郷学校分校と称し、唐国妙楽寺の堂宇を仮用
- 1873年(明治06年)05月 - 第44番小学校と改称
- 1875年(明治08年)04月 - 唐国小学校と改称
- 1900年(明治33年)10月01日 - 北松尾尋常小学校と改称
- 1941年(昭和16年)04月01日 - 大阪府泉北郡北松尾国民学校と改称
- 1947年(昭和22年)04月01日 - 大阪府泉北郡北松尾村立北松尾小学校と改称
- 1956年(昭和31年)09月01日 - 大阪府和泉市立北松尾小学校と改称
- 1962年(昭和37年)06月15日 - 創立90周年記念行事実施、校歌初披露[6]
- 1966年(昭和41年)10月 - 鉄筋校舎落成[7]
- 1972年(昭和47年)04月22日 - 鉄筋新校舎落成(3階15教室・給食場・養護教室・音楽室)
- 1972年(昭和47年)11月22日 - 創立100周年記念行事実施(~23日)
- 1973年(昭和48年)03月31日 - 和気小学校新設に伴い府営住宅児童分離
- 1983年(昭和58年)02月 - 運動場拡張
- 2007年(平成19年)04月01日 - 内田町3丁目・4丁目が北松尾小学校又は緑ケ丘小学校の自由競択地域に変更
- 2008年(平成20年)04月01日 - 寺田町が和気小学校校区に変更
- 2022年(令和04年)11月18日 - 創立150周年記念式典[8][9][10]
- ※出典が個別に示されていない記述は、学校公式サイト内の「沿革」ページに基づく[2]。
- 創立時、郷学校分校が置かれた妙楽寺
- 創立時、郷学校分校が置かれた妙楽寺
- 木造校舎(昭和45年頃)
- 木造校舎と鉄筋新校舎(昭和47年8月)
- 木造校舎取り壊し(昭和47年8月)
- 運動場拡張前の風景(昭和47年8月)
奥の山が開発前のいぶき野付近 - 運動場拡張前の風景(昭和47年8月)
- 運動場拡張前の風景(昭和47年8月)
- 創立100周年記念運動会(昭和47年10月)
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通学区域
- 内田町、内田町一丁目、内田町二丁目、内田町三丁目、内田町四丁目(緑ケ丘小学校の項に規定する各番地を除く。)、唐国町、唐国町一丁目、唐国町二丁目、唐国町三丁目、唐国町四丁目、箕形町一丁目、箕形町二丁目、箕形町三丁目、箕形町四丁目、箕形町五丁目、箕形町六丁目、あゆみ野一丁目、あゆみ野二丁目、あゆみ野三丁目、あゆみ野四丁目[11]。
- ※卒業後は基本的に和泉市立石尾中学校に進学する。
交通
路線バス
脚注
関連項目
参考文献
外部リンク
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