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品田操士
日本の元プロ野球選手 ウィキペディアから
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品田 操士(しなだ あやひと、1973年10月3日 - )は、埼玉県さいたま市出身の元プロ野球選手(投手)。
弟は元プロ野球選手の品田寛介。
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経歴
小学4年の時に浦和リトルに入り、中学時代は一塁手だった[1]。
花咲徳栄高では2年春に関東大会出場[2]。3年春は県大会準々決勝で聖望学園の門倉健と最後まで投げあうも惜敗。夏の県大会は全試合を投げ切って防御率0.00ながら5回戦敗退[1]。1年後輩に池田郁夫、2年下に弟の寛介(ともに広島)の両投手がいた。
1991年のプロ野球ドラフト会議で近鉄バファローズから3位指名を受け入団[1]。
1年目の1992年から一軍に昇格し、同年9月1日の西武戦で7-0と大量リードを奪われた5回裏1死で3番手として初登板。そのイニングに7点取られるも、試合終了まで投げきり結局3回2/3を投げて15失点の苦いデビューとなる(15失点は個人最多失点歴代4位の記録、試合は22-0で当時の得点差リーグ記録)。
その後はトルネード投法にフォーム改造する(捻りの少ないトルネードのため、「レモネード投法」と自称していた)などして、徐々に登板機会を増やし、ローテーション入りも果たしたりもしたが、このフォームが原因で膝を故障するなどしたため、2000年に自由契約となる。
2001年はアメリカ合衆国の独立リーグであるノーザン・リーグのエルマイラ・パイオニアーズでプレーした[1]。
2002年はセリエAのイタレリ・ボローニャに入団[1]し、主力投手として10勝をあげ、リーグ4位の防御率を残した。
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詳細情報
年度別投手成績
記録
- 初登板:1992年9月1日、対西武ライオンズ21回戦(西武ライオンズ球場)、5回1死から3番手で救援登板・完了、3回2/3を15失点
- 初先発:1994年5月21日、対日本ハムファイターズ8回戦(藤井寺球場)、4回1/3を4失点
- 初勝利・初先発勝利:1995年4月21日、対福岡ダイエーホークス4回戦(藤井寺)、8回0/3を3失点
背番号
- 40 (1992年 - 2000年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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