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唐暦

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唐暦(とうりゃく)はの官僚・歴史家である柳芳私撰の歴史書。全40巻。義寧元年(617年)から大暦13年(778年)までの歴史を扱う。

解説

柳芳は粛宗の命により『国史』の編纂に加わっていたが、上元年間に罪を得て左遷される途中で巫州に流されていた宦官高力士玄宗の腹心)と出会い、それをきっかけに改めて私撰の歴史書を編纂した。上元年間から書き始めたと考えられるものの、完成前から既に流出していたために複数の異本が存在するが、①北宋司馬光資治通鑑』の引用が大暦10年(785年)までであること、②宣宗の勅命で編纂された続編『続唐暦』が大暦13年から始まっていること③南宋王応麟玉海』が『中興目録』からの引用として「大暦13年8月」までと明記していることから、最終的には大暦13年まで記されて大暦・建中年間には世に出ていたと考えられている。正史ではなかったものの、完成前から流出するなどその評価は高く、後に宣宗が崔亀従蒋偕らに命じて勅撰で続編にあたる『続唐暦』を編纂させたという(『新唐書』蒋偕伝)[1]

最初に「日本」と記された中国の史書

唐は300年近く続いたために正史である『旧唐書』の編纂が行われたのが10世紀中期のことであった。これに対して、『唐暦』は『旧唐書』よりも150年以上前の8世紀末には完成し、柳芳の私撰の書物であることから早くから世間に広まって勅撰の続編が編纂される程の評価を得ていた。そのため、遣唐使らが容易にこれを入手して日本に持ち帰ることが出来たと考えられ、寛平3年(891年)頃に成立した『日本国見在書目録』雑史部にも「唐暦四十巻 柳芳撰』という記載があることから完成から遠くない時期に日本に伝来したと考えられている[2]

「日本」という国号は7世紀後半から8世紀初めに成立し、大宝2年(702年)の遣唐使によって中国(唐)が正式に承認したと考えられている[3]。大宝年間は日本の国史としては『続日本紀』の時期に相当するが、「日本」の国号の成立については、『日本書紀』の研究においても問題となり、数回実施された公式の『日本書紀』を講究する儀式である日本紀講筵でも取り上げられたことが、その記録である『日本書紀私記』に記されている。そのうち、「丁本」と称される私記には中国の史書では『唐暦』に日本の大宝2年にあたる則天武后久視3年(正しくは長安2年[注釈 1])に倭国が日本国と称したと記されているとあり、中国の史書に「日本」の国号が登場する最古の例として原文が引用されている[注釈 2]。また、『釈日本紀』にも長安2年のこととして同様の指摘があり『弘仁私記』に記されたとする原文が引用されている[注釈 3][4]

正史の『旧唐書』が成立したのは10世紀であり、日本紀講筵が盛んに行われていた9世紀にはまだ存在していなかった。このため、『唐暦』は当時の日本人から「『日本』の国号が記載された最古の中国史書」として強く意識されていたと考えられている。また、『唐暦』の記事と『旧唐書』の日本国伝に類似した記述が含まれており、何らかの関係性をうかがわせる[5]

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脚注

参考文献

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