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問田隆盛

戦国時代の武将 (1519-1557) ウィキペディアから

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問田 隆盛(といだ たかもり)は、戦国時代武将大内氏の家臣で、石見国守護代を務める。通称は十郎。子に問田安弘問田弘胤。実弟に陶晴賢

概要 凡例問田隆盛, 時代 ...

生涯

要約
視点

誕生と享禄年間の戦い

永正16年(1519年11月12日丑の刻に誕生[注釈 2]。父には諸説あるが、大内政弘大内義興の側近として仕えた問田弘胤の子である問田興之と考えられている。

享禄3年(1530年)10月14日付の松崎天満宮遷宮棟札に名が見えるのが初見。同年には父・興之が死去したと思われ、この棟札に署名するまでには家督を継いで石見国守護代に就任した。

翌4年(1531年)、興之の死去を受けて、石見国衆小笠原長隆が蜂起し、家臣らに矢滝城、次いで大田高城を攻撃させており、隆盛はそれに対抗するため、長門国守護代内藤興盛と共に石見へ出陣、小笠原氏を征伐する。

北九州での戦乱

このころ大内家分国筑前国では、少弐資元との対立が激化し、それに加担する大友義鑑とも対立し、大内家分国豊前国・大友家分国豊後国の境目や海上においても戦乱が引き起こされていた。

問田隆盛も水軍を率いて豊後国へ出陣した。天文2年(1533年)12月、隆盛は豊後国国東郡姫島沖に出撃、大友家被官富来氏と対峙している[3]

天文3年(1534年5月13日、豊後国薄野浦における大友氏との戦いにおいて矢傷を受ける。このとき、大内氏の一族右田氏の一族・右田興実、大内氏被官能美仲次と共に攻撃している[4]

その後も北九州諸所での戦乱は続いたものの、天文5年(1536年)年には少弐資元を自害に追い込み、同7年(1538年)には大内家・大友家の和睦が成立した。

石見の戦乱と安芸・出雲遠征

天文9年(1540年)ごろから、出雲国尼子氏の当主尼子詮久が石見国へ進出してきており、隆盛は、大内家から派遣された、義隆側近の沼間興国と共に、大内方石見国衆の周布氏久利氏都治氏石見吉川氏らを指揮してこれを防いだ。

また、石見国三宮・大祭天石門彦神社大宮司岡本兼貞を大内方へと引き込んでおり、当社の裏山にある三子山城の城番として沼間隆勝を置くなどした[5]

また、小守護代のような役割を持つ、一族の問田興定(興之の弟か)も石見国内で戦域を展開しており、その甲斐もあって、天文11年(1542年)までには石見国内での戦闘が落ち着いた。

天文11年、隆盛には嫡男が生まれている[6]

その後、隆盛は義隆による出雲遠征にも参加したものの、翌12年には敗北、石見国内にも尼子勢が展開することと成った。

石見国の平定と国内での職務

隆盛はその後も、石見方面にて尼子勢と戦ったが、天文18年(1549年)には大田造山城を攻め落としたことにより、石見・出雲国境で大内家・尼子家の境界に分かれたこともあってか[7]、石見国での戦闘が終了した。

同年、京都の地下官人真継久直による、諸国鋳物師の公事役徴収の令が大内家分国内に出されたとき、石見国衆の小笠原長徳吉見正頼に対して、公事役を払うように命じた。

大寧寺の変と隆盛の改名

このころ、大内家中では重臣らの対立が起こっており、隆盛もこれに参入することになる。弟・陶隆房は始め相良武任を排斥することを考えていたが、義隆を排斥して、その子・義尊を当主に就任させることを重臣や分国の諸国衆に訴えていた。

隆盛もこれに賛同し、ついに天文20年(1551年)、隆房は挙兵した。しかし、これ以前に隆房は、新たに大友晴英を迎えることを構想していたが、隆盛も了解しており、大内義隆を自害に追い込んだ(大寧寺の変)。

天文21年(1552年)、晴英を迎え、新たな体制が始まった。

そして、隆盛は、晴英から「英」字を偏諱され、英胤へと改名した。同年には、英胤名義で文書を発給している[8]

天文24年(1555年)10月の厳島の戦いにて陶隆房が敗北したため、大内家内で混乱が起きたが、同年閏10月以降、毛利元就防長経略において杉重輔の攻撃により、晴賢の子である甥・陶長房と共に周防国富田において自害に追い込まれた。享年37。

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人物

隆盛は外交能力にも長けており、摂津国石山本願寺の宗主光教(証如)とも交信を図っている。

また、隆盛は当時の奉書から見るに、大内家内での署判順位は隆房に次ぐ位置で、問田家の家格がうかがい知れる。

脚注

  1. 大内晴英(義長)の代になってから、問田隆盛も名乗った問田氏惣領の世襲官途である「大蔵少輔」を名乗る「問田英胤」という人物の書状が残っており、問田隆盛が大内晴英から「英」の偏諱を受けて改名した可能性が指摘されている[1]
  2. 吉田兼右の『兼右卿記』天文11年(1542年10月5日条。なお、同条において、陶晴賢が問田隆盛の同母弟であることも判明している[2]

出典

参考文献

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