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嘯亭雑録
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『嘯亭雜錄』(しょうていざつろく、拼音:xiàotíng zálù) は、清代に刊行された雑録。本編十巻と『嘯亭續錄』五巻の合計15巻で構成される。著者は汲修主人、諱 (本名) は愛新覚羅・昭槤で、ヌルハチの子孫にあたる。
道光初年以前に於ける政治、軍事、経済、文化、制度などの幅広い分野を詳しく網羅し、[注 1]正史 (實錄や四庫全書など) の不足を補うものとして重要な文献の一つに数えられる。
刊行の経緯
編者の昭槤は、ヌルハチの次子ダイシャンの昆孫、即ちヌルハチの仍孫[注 2]にあたる。嘉慶10年 (1805) に礼親王を承襲したが、同20年 (1815) に剥奪、監禁され、翌21年 (1816) に釈放されて、道光2年 (1822) に候補主事の職を与えられた。道光9年 (1829) に53歳で死去している。[1]
昭槤は文史 (伝記) を好み、有職故実に関心をもって草稿を書き溜めていたが、死後に多くが散逸した。
それから暫く経ち、光緒元年 (1875) に醇親王・奕譞 (溥儀の祖父) が『嘯亭雜錄』の原本を入手した。しかし全体的に雑然として読むに耐えなかった為、奕譞は昭槤の府邸に上がり込むと、原稿を蒐集し直し、新たにみつかった若干の原稿を併せて仔細に修正を加え、凡そ五箇月かけて整理した。それが『嘯亭雜錄』15巻である。[2]
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各巻の内容
雑録
巻1
巻2
巻3
巻4
巻5
巻6
巻7
巻8
巻9
巻10
続録
巻1
巻2
巻3
巻4
巻5
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影響と誤謬
影響
魏源『聖武記』、李桓『國朝耆獻類徵』、趙爾巽『清史稿』などはどれも本書から大量に引用している。[注 4]
また、本書では清朝貴族の横暴さについて直言して憚らず、たとえば巻9「權貴之淫虐」[3]には
雍正中、某宗室の家に西洋椅有り、街衢間に於て少艾をとめの有るを睹みかけ、即ち擄とらへ歸り、其の椅上に坐りて、意に任せて宣おほやけに淫し、其の人動轉する能はざりけりとなむ。
又た某公爵に其の家婢を淫す有り、〔家婢が〕從はざれば、鷄卵を以て其の陰戸を塞ぎて死に致らしめたり。
乾隆中、某駙馬の家巨富にして、嘗て其の婢を淫せども從はず、命じて裸にて雪中に置き僵死させけり。其の家、女婢を撻死うちころせしは無算にして、皆な牆穴より屍を棄て出だし、其の父母敢へて詰なじる莫し。後、卒つひに勞瘵[4]を以て死せり。
という記載がみられる。
誤謬
事実誤認とみられる箇所も散見される。
例えば、巻2「本朝文人多壽」[5]には以下の通り都合15名の文人の享年[注 5]が記載されているが、この内の数名には年齢に大きな誤差がみられる。[注 6][注 7]
王弇州著《文人九厄》,使人閱之,索然氣盡。余按本朝文人多壽,可以證王之失。如王文簡公士禎七十七,朱竹彜尊八十四,尤西堂侗八十五,沈歸愚尚書德潛九十五,宋漫堂犖七十二,查初白慎行七十八,方靈臯苞八十二,袁簡齋枚八十二,錢辛楣大昕七十七,紀曉嵐尚書昀八十二,彭蕓楣尚書元瑞七十三、姚姬傳鼐八十四,翁覃溪方綱八十餘,梁山舟同書九十二,趙甌北翼八十二,四公至今猶存。
同じく巻2「啟心郎」[6]の下の記載について、黒龍江大学の副教授・沈一民氏は「以通曉國語之漢員為之」を誤りであると指摘している。[7]
國初,滿大臣不解漢語,故每部置啟心郎一員,以通曉國語之漢員為之。……
脚註
- 参考:ヌルハチ→代善ダイシャン→祜塞→傑書→椿泰→崇安→永恩→昭槤 (『愛新覺羅宗譜』より)。
- 参考:日本と中国のWikipedia (一部別サイト含む) に記載されているそれぞれの生歿年から享年を計算したところ、誤差が二歳以上 (二歳含む) の者は朱彝尊(80)、宋犖(80)、趙翼(87) の三人だけで、誤差一歳以上 (一歳含む) の者は、上記の者を除くと尤侗(86)、沈徳潜(96)、査慎行(77)、方苞(81)、銭大昕(76)、紀昀(81)、彭元瑞(72) の五人。つまり八人に一歳以上の誤差があることになるが、维基百科「啸亭杂录」(翻訳元) が引用している朱則杰『《嘯亭雜録》三條考辨』がどのような計算をしたのかは不明。尚、「八十余」とされている翁方綱は85歳。(*ここでは簡単に死歿年から出生年を引算し、月と日までは勘定に入れていない。また、そもそもリンク先のWikipedia自体に誤りがある可能性もある為、この誤謬についての記述は一旦消さずに遺す。)
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典拠
出典
関聯項目
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