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土肥慶蔵

日本の医学者 ウィキペディアから

土肥慶蔵
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土肥 慶蔵(どひ けいぞう、慶応2年6月9日1866年7月20日) - 昭和6年(1931年11月6日)は、日本の医学者。号は鶚軒。日本における皮膚科学の開祖[1]

概要 人物情報, 別名 ...

経歴

出生から修学期

1866年、越前国武生領の医者・五世石渡宗伯の次男として、越前府中松原(現・福井県越前市武生)に生まれた。1880年、15歳のときに兄・秀實に伴われて上京し、下谷(現・台東区下谷)の進學舎でドイツ語を学んだ。同年、東京外国語学校(現、東京外国語大学)に入学。1885年には東京帝国大学医学部予科に入学した。1889年、母方の叔父土肥淳朴の養子となり、以降土肥姓を名乗った。1891年に卒業。

医師として

卒業後は、東京帝国大学附属第一医院外科医局に入局し、外科医スクリバの助手となった。

1893年、ドイツへ留学し、はじめは外科学を学んだが、帝国大学医科大学皮膚病梅毒学の初代教授村田謙太郎が亡くなったために、その後任を求めていた文部省から同省留学生として皮膚科学を学ぶように命ぜられた。そのためウィーン大学に移り、カポジ肉腫で知られるモーリッツ・カポジに皮膚科学を、ランゲに梅毒学を学び、さらにパリ大学でギュイヨンの下で泌尿器科学を学んだ。1897年、ベルリンで開かれた第1回国際らい会議に高木友枝と共に出席。1898年1月に帰国。

ドイツ留学帰国後

1898年2月より東京帝国大学医学部の皮膚病梅毒学講座を担任し、後進の育成に努めた。6月には主任教授となり、1926年まで在籍。学界では日本皮膚科学会を設立し、その会頭を務めたほか、日本らい学会を含む多くの学会に関与し、医学研究の振興と指導にあたった。

医師、医学研究者としての面以外に、漢詩文にも造詣が深く、鶚軒と号し、多くの作品を残している。1931年、肝臓癌のため東京で死去。享年65。墓所は多磨霊園にある[2]。戒名は智徳院殿松寿光鶚大居士[3]

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栄典・授章・授賞

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土肥慶蔵
位階
勲章等
学士院賞

家族・親族

研究内容・業績

東京大学皮膚科教授で、実質的に西洋医学に入る皮膚科を日本に導入した。ドイツオーストリアフランスに留学し、皮膚科と同時に泌尿器科も学んだ。功績として、日本皮膚科学会を発足させたことやいくつかの病気を発見したこと、ムラージュという蝋細工で皮膚病を表現する方法を導入したことなどが挙げられる。 慶蔵は、東大医科大学時代の同級生呉秀三や医史学界の泰斗となった富士川游らの影響を受け、医史学にも興味を持つに至り、1921年(大正10年)に著した『世界黴毒史』は不朽の大作として知られている。この本は皆見省吾により独訳された。 また、1923年(大正12年)に出版した『性病学』は、花柳病という呼び名を性病に改める契機となった[12]

鱗状毛包性角化症

  • Keratosis follicularis squamosa Dohi は毛孔性角化症の一つで、体幹に毛孔性黒色、小さい角化点を中心に円形葉状に鱗屑(りんせつ)を形成、鱗屑の周辺は皮膚面より隆起、あたかもハスの葉が池に浮かんだ感じがある。[13][14]

ハンセン病

土肥は第1回国際らい会議(ベルリン)に出席しただけでなく、ハンセン病に関しては、時々彼の意見を発表していた。1912年には大風子油クレオソート、ホアンナン、ツベルクリンヨード、ナスチン、テトロドトキシンなど、当時の治療法の総説を書いている。また、その中で明治時代に各種試みたが大風子油が最良であったとも書いている[15]

ムラージュの導入

日本に蝋細工、ムラージュの技術を伝えたのは土肥慶蔵である。彼が留学していたカポシの紹介でヘニングから製法を教わって1898年帰朝した。彼は伊藤有(いとう ゆう、1864年 - 1934年)に技法を教授し、彼はまた努力して独特の製法を作りだしたという。この技術は医学教育に大いに役にたったが、戦後カラー写真の普及で廃れた[16][17]

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著作

著書
  • 『日本皮膚病黴毒圖譜』(全10帙) 朝香屋書店 1903-1910
  • 『黴毒新論』朝香屋書店 1903
共編著
  • 『外科汎論』高橋金一郎共纂述 1890
  • 『日本醫学叢書』呉秀三富士川游共撰、金港堂 1905-1906

外部リンク

文献・脚注

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