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東京慈恵会医科大学
東京都港区にある私立大学 ウィキペディアから
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東京慈恵会医科大学(とうきょうじけいかいいかだいがく、英語: The Jikei University School of Medicine)は、東京都港区西新橋三丁目25番8号に本部を置く日本の私立大学。1881年創立、1921年大学設置。大学の略称は慈恵医大(じけいいだい)、慈恵(じけい)、慈大(じだい)。
概観
大学全体
1881年(明治14年)に創立された成医会講習所が起源。1891年(明治24年)、昭憲皇太后の意向を受け、東京慈恵医院医学校と改称された。その後、1903年(明治36年)、専門学校令を受けて日本初の私立医学専門学校として東京慈恵医院医学専門学校となる。さらに、1921年(大正10年)に大学に昇格して東京慈恵会医科大学となった。これは大学令に基づく日本の私立の旧制大学の中で最も古い単科の医科大学である。
1991年(平成3年)、医学部看護学科の設置が日本で初めて認可され、医学部の下に医学科と看護学科を設置し、医師・看護師の育成を行っている。また、1956年(昭和31年)に大学院医学研究科博士課程を設置、2009年(平成21年)には大学院医学研究科看護学専攻修士課程を開校した。開学以来130年間の卒業生は12,000人を超え、全国各地で医療を社会に提供している。
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沿革
要約
視点
略歴
東京慈恵会医科大学の起源は、高木兼寛によって1881年(明治14年)5月1日に創立された医術開業試験受験予備校(乙種医学校)の「成医会講習所」である[1]。高木は1875年(明治8年)から5年間、海軍生徒として英国セント・トーマス病院医学校(現:ロンドン大学群キングス・カレッジ・ロンドン医学部)に学び、このように権威のある医学校を日本につくりたいと思っていた。高木は帰国後、廃止された慶應義塾医学所に関わっていた松山棟庵とともに1881年(明治14年)1月、「成医会」なる研究団体を設立し、次いで同5月にこの成医会講習所を設立している。
その後、高木は戸塚文海とともに、1882年(明治15年)、有志共立東京病院なる慈善病院を発足させている。この病院の設立趣意には「貧乏であるために治療の時期を失したり、手を施すことなく、いたずらに苦しみにさらされている者を救うこと」にあるとしている。このような趣意も、高木が英国留学中に受けた人道主義や博愛主義の強い影響による。同病院の資金は有志の拠金によるものであり、有志共立という名はそのためであった。病院総長としては有栖川宮威仁親王を戴き、また大日本帝国海軍軍医団の強い支援があった。
有志共立東京病院は、こうした慈善病院のほかに医学教育の場としても重要な役割を果たし、成医会講習所や海軍軍医学校の実習病院の役割を担った。これも、英国で経験した慈善病院と医学校の関係を東京に実現しようとしたものである。1887年(明治20年)、同病院は皇后を総裁に迎え、その名も東京慈恵医院と改め、経費は主に皇室資金によることになった。成医会講習所も成医学校に、次いで東京慈恵医院医学校に改称され、同病院構内(当時は東京市芝区愛宕町二丁目、現:港区西新橋三丁目)に移転した。
有志共立東京病院時代の特筆すべき事業の一つに看護婦教育所の設立がある。英国留学時代、セント・トーマス病院に付設されていたナイチンゲール看護学校を目の当たりにした高木は、日本の近代看護教育の導入にも極めて積極的であった。彼は1884年(明治17年)10月、米国女性宣教師のリードを招き看護婦教育を実践した。これが日本での近代看護教育の始まりである。第一回生はわずか5名であったが、総裁皇后の臨席を得て卒業式が行われた。現在の慈恵看護専門学校及び医学部看護学科、大学院医学研究科看護学専攻修士課程はこの流れを汲むものである。
1907年(明治40年)、有栖川宮威仁親王妃慰子を総裁とする社団法人東京慈恵会が設立され、東京慈恵医院の経済的支援をすることになったので、東京慈恵医院は東京慈恵会医院と改称された。また既に医学専門学校に昇格していた東京慈恵医院医学専門学校は、1908年(明治41年)に東京慈恵会医院医学専門学校と改められた。
1921年(大正10年)、大学令の公布を機会に東京慈恵会医院医学専門学校は東京慈恵会医科大学に昇格した。その時、高木家私有の東京病院が大学に寄付されたため、医科大学として附属病院を持つことになった。1952年(昭和27年)に学制改革による新制大学となり、1956年(昭和31年)に大学院医学研究科博士課程、1992年(平成4年)に医学看護学科、2009年(平成21年)に看護学専攻修士課程が設置された。
年表



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基礎データ
所在地
象徴
校歌
東京慈恵会医科大学の正式な校歌は現在はほとんど使用されていない。学生歌には『第一学生歌』(作詞:川路柳虹、作曲:大和田愛羅)と『第二学生歌』(作詞:松村一雄、作曲:堀内敬三)があるが、学生が部活動や飲み会などにおいて自主的に歌うのは前者が大半であり、入学式においても前者のみが斉唱されている。それゆえに大学関係者の認知度としては『第一学生歌』が事実上の校歌となっている。
教育および研究
組織
学部
- 医学部
- 医学科
- 看護学科
大学院
- 医学研究科
- 医学系専攻(博士課程)
- 看護学専攻(博士前期課程・博士後期課程)
附属機関
- 附属病院
- 附属病院(本院)
- 葛飾医療センター
- 第三病院
- 柏病院
- 晴海トリトンクリニック
大学関係者と組織
大学関係者一覧
施設
キャンパス
西新橋キャンパス
国領キャンパス
社会との関わり
研究
- 本大学7代学長の名取礼二(1912-2006,生理学者)は、筋原線維の分離に成功(ナトリファイバー)し、筋収縮の機構解明に貢献した。それまでは細胞膜を通して刺激が伝わると考えられていたが、膜を剥がしたカエルの筋線維がCa刺激で収縮することを実験で示して世界を驚かせた。
- 本大学附属病院血管外科では、日本の外科教室で唯一のFlat panel X線透過装置を持つ血管治療専用手術室を備える。従来のステンドグラフトでは治療できない、胸部大動脈瘤、傍腎動脈腹部大動脈瘤と腹部大動脈総腸骨動脈の血流を温存するために、穴を開けたステントグラフト(有窓性)や枝をつけたステントグラフト(枝付き)を用いた血管内手術など、安全かつ体に負担をかけない手術が行われている。
- 本大学附属病院リハビリテーション科では、脳卒中後上肢麻痺(手指の麻痺)に対する治療アプローチ NEURO (NovEl Intervention Using Repetitive TMS and Intensive Occupational Therapy) が世界に先駆けて考案された。
- ロシアのシベリアで発見された凍結マンモスは、本大学の高次元医用画像工学研究所にて体内構造の解析を行っている。
- 放射線医学の第一人者である樋口助弘教授が在籍していたことから、1940年(昭和15年)日本医学放射線学会事務局が慈恵医大放射線医学教室に設置されていた。
他大学等との連携・協力
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附属学校
社団法人東京慈恵会が運営する以下の教育機関も大学内では附属学校扱いとなっている。
脚注
外部リンク
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