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垣内兼次
江戸時代初期の豪族 ウィキペディアから
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垣内 兼次(かきうち かねつぐ)は江戸時代初期の豪族。紀伊国有田郡栖原村の豪商垣内太郎兵衛家3代目。房総半島の漁業に進出した。
生涯
天正14年(1586年)[1]紀伊国栖原垣内家2代重久の子として生まれた[2]。幼名は藤丸[2]。農業は迂遠だとして、郷民に漁業を訓練させ、家来徳兵衛を駿河国に派遣し、吉原・江尻間で操業させた[2]。数年後豊臣氏が失脚し、浅野氏が紀州藩を治めると、重税のため兼次に従う郷民が増加したという[2]。四国近海に海賊が出没すると、和泉国堺港に人を派遣して刀・槍・弓・銃を買い込み、武装して操業を行った[2]。
浅野長晟に呼ばれ、家老亀田大隅を通じて家禄を打診されるも断った[2]。慶長11年(1606年)10月有田郡沿海漁業の監督を命じられた[2]。
豊臣氏滅亡後治安が安定すると、安房国一帯の漁業に進出した上、海運業にも手を広げ、藩に多額の税を納めた[2]。北は常陸国・下総国、南は日向国・薩摩国にまで漁場を拡大、寛永7年12月20日(1631年1月22日)45歳で病没し[2]、丸山西原に葬られた[3]。
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親族
脚注
参考文献
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