トップQs
タイムライン
チャット
視点

浅野長晟

江戸時代前期の大名。備中足守藩主、紀伊和歌山藩2代藩主、安芸広島藩初代藩主。浅野家16代。浅野長政の次男。従五位下右兵衛佐、但馬守、従四位下侍従。 ウィキペディアから

浅野長晟
Remove ads

浅野 長晟(あさの ながあきら)は、江戸時代前期の大名備中国足守藩主、紀伊国和歌山藩の第2代藩主安芸国広島藩初代藩主。浅野家16代当主。

概要 凡例浅野 長晟, 時代 ...
Remove ads

生涯

近江滋賀郡坂本(現滋賀県大津市)に浅野長政の次男として生まれる。

文禄3年(1594年)、豊臣秀吉に仕えて3000石を与えられる。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い以後は徳川家康に従い、徳川秀忠の小姓を務め、慶長15年(1610年)に備中足守に2万4000石を与えられる。

慶長18年(1613年)、長兄の幸長が嗣子なく病死したため、家督を相続して紀伊和歌山藩(紀州藩)主となった。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では序盤の木津川口の戦いに参戦したほか、翌20年(1615年)の夏の陣では、樫井の戦い塙直之らを討つという功績を挙げた。しかし、紀伊国内では北山一揆紀州一揆と土着勢力の相次ぐ蜂起に遭い、戦後すぐに領内に戻り一揆の鎮圧にあたった。同年、徳川家康の仲介で三女の正清院(蒲生秀行未亡人)と婚姻した。

元和5年(1619年)、福島正則改易されると、その後を受けて安芸広島42万石に加増移封された。この年、長晟は重臣浅野氏重を殺害したために騒動となったが、蒲生忠郷[3]らが長晟を擁護したことで事なきを得た。

寛永9年(1632年)9月3日、広島で死去した。享年47(満46歳没)。家督は次男の光晟が継いだ。

墓所は広島県広島市の神田山墓地。

Remove ads

系譜

脚注

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads