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壬申戸籍
明治時代の日本の戸籍 ウィキペディアから
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壬申戸籍(じんしんこせき)は、明治4年(1871年)の戸籍法に基づいて、明治5年(1872年)に編製された戸籍である。編製年の干支「壬申」から「壬申戸籍」と通称される。
概要
要約
視点
江戸時代の宗門人別改帳に代わり、皇族から平民まで戸を単位に集計した。江戸幕府の国別人口調査と異なり、全国一律の基準で集計して画期的であった。この戸籍で当時の日本の総人口は3311万人と集計された。1873年(明治6年)から1919年(大正8年)までの人口統計は、壬申戸籍に対する増減をもとに算出した。転出や転入の届けなしの移動が相当数で、地域別人口のずれが年々拡大した。壬申戸籍は役所の戸籍簿の集計で、直接の人口調査によらず、無視できない脱漏がある。のちの統計は集計値の他に推計値を記し、1920年(大正9年)の第1回国勢調査まで誤差は次第に拡大した。1872年(明治5年)の総人口を3480万人に修正した推計があるが、この推計値も議論がある。
1871年(明治4年)の戸籍法は不備が多く、印鑑証明や地券など多くの機能を持たせて複雑となった。必要限度の要件を満たせば記載様式も特に設けられず、地方により書式の詳細に格差が生じた。以後6年に1回改編する規定も、大区小区制施行と併せて行われた1回程度で、問題点が多かった。
1878年(明治11年)以前はこの戸籍を戸長が管理し、郡村制施行後は役場が管理した。
壬申戸籍は、皇族、華族、士族、卒族、地士(讃岐の郷士のみ)、旧神官、僧、尼、平民などを別個に集計した。このとき被差別部落民は賎民解放令に基づいて平民として編入したが、一部地域の戸籍は新平民や元穢多や元非人など記載した。一部は明治19年式戸籍や身分登記簿にも登載された。明治5年に族称が皇族・華族・士族・平民に統合されることが決定され、明治10年ごろまでに卒族・地士・旧神官・僧・尼などの身分が全廃された。職業も記載様式に含まれ、華族・士族はおもに禄高、平民は農工商雑、それぞれ業種を記載した。宗門人別の性質を残すため、1885年(明治18年)に廃止されるまで寺、氏神の記載があった。
妾も二等親として、1882年(明治15年)に廃止されるまで、戸籍の登載を定められた[注釈 1]。
「等親」と「親等」は異なり、「親等」は世代を数え、「等親」は続柄の尊卑親疎(そんぴしんそ。親子・婚姻関係)を考慮したものである。「親等」で配偶者は同一世代であり数えない。[1]。使用人・家来などは他人であっても養育している者は附籍として、明治15年登載が禁止され明治31年に廃止されるまで、その養育する者の戸籍に登載されていた。
1886年(明治19年)に壬申式から統一書式を用いた戸籍へ変更され、同年11月から徐々に移行され、1898年(明治31年)に戸籍法で、この様式は改製原戸籍とされた。改製原戸籍は保存期間が経過した後に廃棄処分扱いとされたが、その後もこれを閲覧に供した地方自治体も散見された[2]。
1968年(昭和43年)に被差別部落民か否かを探るために壬申戸籍を用いようとした事件が発覚し、同年3月29日に民事局長通達で閲覧を禁止し、法的な廃棄手続きを経たものは法務局・地方法務局・市町村のいずれかで厳重に包装封印して保管した[2]。保管の理由として「遠い将来における学術資料・歴史的資料となり得るもの」としている[2]。灘本昌久は「現在、広く信じられている俗説に、壬申戸籍は、政府が差別を目的として作ったもので、解放令を無に帰すため、部落民にはほとんどすべてに『穢多』『新平民』という記載があり、現在でも壬申戸籍を見れば、たちどころに部落民か否かが判明するかのごとき誤解がある。(略)しかし、実際に壬申戸籍を見ればわかるが、確かに役場の戸籍係が様式に違反して、古い戸籍を引き写し『新平民』『穢多』などと記してある場合があるにはあるが、それは、例外的であって、99%は『平民』と記載されている」[3]と指摘している。
現在、壬申戸籍は行政文書非該当として扱われ、各地方の法務局が厳重に保管し、閲覧は不可能である[2]。公開された場合には人権を侵害するおそれがあるため、開示されていない。壬申戸籍の情報公開請求をした事例が2001年(平成13年)と2004年(平成16年)にあるが、いずれも行政文書非該当を理由に却下されている[2]。
2019年2月に静岡県浜松市周辺の壬申戸籍とみられる文書が「明治戸籍」の名でヤフーオークションに出品され、13万余円で落札されていたことが判明した。主宰者のヤフーは内容不適切を理由に、売買不成立として出品を削除した[4]。静岡地方法務局がヤフーを通じて回収し、真贋を調べている[5]。
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記載様式例
○○番屋敷居住(借店) 平民 魚屋渡世 先代 父太助亡 戸主 二心 太郎 壬申年 五十 旧幕臣 妻 はな 中村主水三女 壬申年 四十八 武蔵国北豊島郡 妾 さき 金杉村農茂助妹 壬申年 廿一 旧幕臣 附籍 椿 三十郎 大塩平八郎弟 壬申年 六十五 氏神 八幡社 寺 浄土宗 ○○寺
- ただし記載は縦書き
壬申戸籍の全国・地域別・職業別集計
要約
視点
明治5年族籍別人口
以下の明治5年の族籍別人口表では、今上天皇睦仁、皇太后夙子、皇后美子の男1名女2名を含む皇家(皇室)3名が皇族に集計されていない。「地士」は讃岐高松藩固有の郷士階級で、士卒族に吸収されずに明治6年ごろまで存続した。
明治5年 - 明治9年民間人職業別人口
明治5年からの戸籍表作成に伴い職業も記載されたが、職業・産業・身分の概念が未分化の状態であった。以下に『明治七年政表』、『全国男女年齢・職業区別』などによる明治6年(1873年) - 明治9年(1876年)の琉球・開拓使・樺太を除く府県73か国の民間人の職業別本籍人口をまとめる。調査対称は15歳以上の有職業者および15歳未満の戸主で、雑業の業種区分は不明確かつ非労働力人口の扱いが曖昧である。「官員神官華士卒兵隊僧尼旧神官ノ召使」は「従者」に、「平民ノ召使」は「雇人」に分類された。
琉球、開拓使、樺太の職業別本籍人口(明治8年〈1875年〉、明治9年〈1876年〉)。
明治6年地域・族籍・職業別人口
以下の明治6年の地域別(北海道以外は旧国別)・族籍別(皇族から平民まで)・職業別(官員から雇人まで)の人口表は、寄留届が不徹底で入寄留人員が出寄留人員を11万8422人上回り、本来は同数の本籍人口と現住人口(=本籍人口+入寄留-出寄留+御預異宗徒)の全国総計が一致しない。御預異宗徒は、浦上四番崩れにより諸国へ配流となった隠れキリシタンで、明治6年の肥前国の平民人員・人員計(本籍人口)はこれら異宗徒1757人を含み、肥前国の出寄留人員と別集計として肥前国の現住人口から除かれる。
本表の職業別人口は本籍人口ベースで、入出寄留表のみ記載のある修行人の本籍人口は0人であるため除外し、皇学・支那学・英学・仏学・独逸学・米学・蘭学・魯学・普通学・兵学は学者として集計した。入出寄留表の方では官員 - 雇人の職分のほかに、華族・士族・卒・僧・尼・修行人・「官員ヨリ雇人迄ノ家族並ニ僧尼弟子共」の分類があり、職分記載の対象は事実上平民のみであった可能性が高い。漁業の項目は開拓使にのみ設置されており、他地域では農または雑業などに分類されるなど、職業分類は未熟である。
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族籍別人口と割合の変遷
要約
視点
明治5年式戸籍(壬申戸籍)
明治5年旧暦1月29日の時点で卒族の廃止が決定されていたが、卒族・地士・僧・旧神官・尼などの族籍は統計上明治9年ごろまで存続した。
明治10年と明治11年は、西南戦争が影響して全体の族籍別人口の統計がない。明治12年と明治13年は、比較的士族の割合が高いとされる鹿児島県の大隅国熊毛郡・馭謨郡・大島郡の三郡が統計不備のため族籍不詳者が多数で、実際よりも0.2 - 0.3%程度士族人口の割合が低い。
明治19年式戸籍
皇族は戸籍から除外され、皇統譜に記載される。
明治31年式戸籍・大正4年式戸籍
以下明治31年度(1898年度)以降、5年毎に集計された『日本帝国人口統計』と『日本帝国人口静態統計』による[注釈 2]。
明治31年式戸籍で制定された身分登録簿は大正4年式戸籍で廃止された。大正9年10月1日(1920年10月1日)の国勢調査開始以降は、族籍別人口統計が作成されなくなる。
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脚注
参考文献
関連項目
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