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多治比広成

飛鳥時代から奈良時代の公卿・漢詩人。多治比嶋の五男。従三位・中納言 ウィキペディアから

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多治比 広成(たじひ の ひろなり)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての公卿漢詩人左大臣多治比嶋の五男。官位従三位中納言

概要 凡例多治比広成, 時代 ...

経歴

和銅元年(708年従六位上から三階昇進して従五位下叙爵され、下野守に任ぜられる。その後、元明朝から元正朝にかけて越前守能登国越中国越後国を管轄する按察使など地方官を歴任する傍ら、和銅5年(712年)従五位上、霊亀3年(717年正五位下、養老4年(720年)正五位上と順調に昇進する。

神亀元年(724年聖武天皇の即位後まもなく従四位下に叙せられる。天平3年(731年)従四位上。天平4年(732年)兄の縣守(第9次押使)に次いで第10次遣唐使の大使に任ぜられ、翌天平5年(733年)4月に難波津からに向けて出発[1]、天平6年(734年)11月に唐から種子島に無事帰着する[2]。帰国翌年の天平7年(735年)遣唐大使の功労により二階昇進して正四位上に叙せられた。なお、唐においてはとして多治比に代えて丹墀を用い、帰国後は元の多治比に戻したという[3]

天平9年(737年)兄の中納言・多治比縣守と当時政権を握っていた藤原四兄弟が相次いで没すると、8月に参議、9月には従三位・中納言に叙任され、知太政官事鈴鹿王大納言橘諸兄に次いで一躍太政官の第三位の席次に昇る。天平11年(739年)4月7日薨去。最終官位は中納言従三位兼式部卿。

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人物

漢詩人として、『懐風藻』に漢詩作品3首が採録されている。また、広成が遣唐大使として唐に渡る直前、約30年前の第8次遣唐使で渡唐していた山上憶良の邸宅に挨拶に訪れた際に、憶良から広成に贈られた、往来の無事を祈る和歌が『万葉集』に記されている[4]

官歴

続日本紀』による。

脚注

参考文献

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