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多治比池守

飛鳥時代から奈良時代の公卿。多治比嶋の長男。従二位・大納言 ウィキペディアから

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多治比 池守(たじひ の いけもり)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての公卿左大臣多治比嶋の長男[1]官位従二位大納言

概要 凡例多治比 池守, 時代 ...

経歴

持統天皇7年(693年)直広肆(従五位下に相当)に叙せられる。

和銅元年(708年)2月に平城京への遷都が出ると、3月に民部卿に任ぜられ、9月には阿倍宿奈麻呂と共に造平城京司長官に任ぜられ平城宮の造営を担当する(この時の位階は従四位下)。和銅3年(710年)3月に平城京への遷都が行われると、4月には右京大夫となり引き続き平城京の整備に従事した。和銅6年(713年正四位下、和銅7年(714年従三位元明朝末にかけて昇進を果たした。

和銅8年(715年大宰帥に任ぜられると、霊亀3年(717年)には地方官としての善政を賞されて10疋・20疋・30疋・綿300屯・100端を与えられた。その後、左大臣石上麻呂の薨去に伴う養老2年(718年)の人事異動で中納言に、右大臣藤原不比等の薨去に伴う養老5年(721年)の人事異動で大納言、養老7年(723年)には正三位と、元正朝でも順調に昇進し、長屋王政権が確立されると左大臣長屋王に次ぐ地位を占めた。

聖武朝神亀4年(727年)正月に従二位に昇進し、同年11月には百官を率いて聖武天皇皇太子・阿倍内親王(のち孝謙天皇)に拝謁した。神亀6年(729年長屋王の変が発生した際には長屋王邸に派遣されて王の窮問を担当している[2]。長屋王が失脚した後、太政官では知太政官事舎人親王に次いで臣下最高位となるが、翌天平2年(730年)9月8日薨去。最終官位は従二位大納言。

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官歴

六国史』による。

系譜

脚注

参考文献

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