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大宰帥

大宰府の長官 ウィキペディアから

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大宰帥(だざいのそち/だざいのそつ)は、大宰府九州筑紫)の長官。唐名都督、和名は「おほみこともちのかみ」。

律令制において西海道の92を管轄し、九州における外交防衛の責任者となった。9世紀以降は親王の任官で、大宰府に赴任しないことが慣例となり、実権は次官の大宰権帥(だざいのごんのそち)及び大宰大弐(だざいのだいに)に移った。

概要

要約
視点

飛鳥時代

古くから筑紫倭国にとって外交・軍事上重要な地であり、この大宰帥の前身については、『後漢書東夷伝』に見える倭国王の自称の帥升、『魏志倭人伝』に見える一大率那津官家の管理者、九州王朝関連説などの諸説が混在する。飛鳥時代初期にはすでに置かれていたと考えられており、史書の初見は609年に筑紫大宰とある。

大宰

大宰(おほ みこともち)・大宰帥とは、一般には数か国程度の広い地域を軍事を含めて統治・指揮する地方行政長官の役職である。率(そち)・総令・総領などとも呼ばれた[1]

白村江の敗戦(663年)直後は各地に防衛拠点を置くために、筑紫以外にも、吉備大宰(天武天皇8年(679年))、周防総令(天武天皇14年(685年))、伊予総領持統天皇3年(689年))などに設置された。古代山城も築かれた。これらの役職・制度は令制施行と共に廃止された。

律令制以降

令制施行後、「大宰帥」の職名が成立し、親王は三品もしくは四品、臣下であれば従三位(場合によっては正三位)の者が任じられた。初期には大伴旅人のごとく九州に赴任して大納言以上への昇進の足がかりとなる場合も多かったが、やがて参議中納言などと兼官して赴任せず(遥任)に季禄職分田などの特権のみを享受する者も現れ、臣下の大宰帥は弘仁年間の多治比今麻呂が最後となる。

親王の大宰帥(親王帥)は大同元年(806年)の伊予親王桓武天皇皇子)が初例である。弘仁14年(823年)の大宰府管内での公営田設置を機に、親王任国と同様、大宰帥には親王を補任するのが慣例となった(この慣例における初例は弘仁14年の葛原親王)。こうした親王帥を「帥宮(そちのみや)」と呼ぶ。その目的は皇室財政の緊縮にあったため、当然親王帥は在京のままで府務を行わず、実際の長官には、臣下から次官大宰権帥大弐(任官者が納言クラスなら権帥、参議や散三位クラスなら大弐)を派遣するものとされた。『北山抄』には「如帥・太守等者、為親王所置之官也」と見え、親王帥が固定化しつつあったことが分かる。

ただし、この規定は親王任国の場合と違ってあくまで慣習法に過ぎず、令や格式にて定められたものではなかったから、事情の如何によっては臣下の大宰帥が補任されることがあり得た。長保3年(1001年)の平惟仲治承3年(1179年)の藤原隆季はその例だが、前者は左遷(実質配流)による権帥藤原伊周の後任になることを嫌ったため、一方後者は権帥として左遷された関白藤原基房を監視するため(実際には備前国に配流とされたために帥の赴任も中止された)であったといわれる。

寛仁3年(1019年)の刀伊の入寇以降は、外寇時の責任が親王へ及ぶことが危惧されたため、例外を除いて帥宮も含めた大宰帥の赴任はなくなったとされている。刀伊の入寇当時の帥である敦平親王も治安3年(1023年)に中務卿に遷されている。親王そのものものの数が減少した(皇位継承に関わらない皇子の大半が出家させられる)こともあり、親王帥の任命は嘉元2年(1304年)に尊治親王(後の後醍醐天皇)が任命されるまで中絶している[2]。その後も断続的に行われ、明治2年(1869年)の官制改革まで存置された。なお、最後の親王帥は有栖川宮熾仁親王である。

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大宰帥の一覧

要約
視点

大宰帥を務めた人物の一覧。大宝令以前については、大宰帥の前身と考えられる長官職を採録した。

さらに見る 名, 補任(不明の場合は初見) ...
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脚注

参考文献

関連項目

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